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ちょっとした夏


 車が動くたびに揺れる芳香剤の香りに、なんとなく翔は嫌悪感を示した。
「いつまでたっても、貧乏暮らし。金が蛇口から出てこんかの」
 月々の支払いに追われていると嘆いたヒロは、プリウスの革ハンドルを握りながら言った。社会人三年目にも関わらず、大層に乗りこなしていた。翔はヒロの片手の腹でハンドルを押す姿を見ると、まだ田舎臭さが抜けきれていないのを感じる。
 二人は久しぶりに会った。そして遠い記憶を重ね塗りするように、お盆に小旅行を計画したのだった。
 プリウスは国道沿いを進んだ。
「休日に遠くに出かけるって大人になった感じやな」
「もう俺らも二十歳になってんで。考えられへんな」
「せやねん。翔なんて短大行っとったけん、まだ大人の卵やで」
 ヒロのハンドルを掴みもしない、五本の指先が、油汚れのせいで黒く濁っているのを確認した。逞しくて、歪な指もあった。
 自分は高校を出て親の後を継いだ、大学の時間を味わっていない、打つけ所もないヒロの悲しみが、翔には染みるように伝わった。
 朝日に打たれながら、翔は欠伸をした。カーナビにうつる緑の線は、果てしなく続いている。目標の夫婦橋に着くには、あと四時間としていた。陽炎が視界に見える。エンジン音が車内に響いていた。
「丸木、呼べばよかったかな」
「呼んでも来んで。あいつは大学で、うはうはよ。最近、彼女ができたらしいけんな。それも巨乳やってよ、いや爆乳といってもええか」
「そうなんや」
 翔は落ち込んだような口調で言った。
「いや、爆乳じゃなくてお茶碗ぐらいやったかの」
 ヒロもつられて欠伸をした。
「話膨らますんはええけど、人のおっぱい勝手に膨らますなよ。バチあたんで」
 翔の返しに、ヒロは足を踏み鳴らしながら品のない笑い方をした。ハンドルを無遠慮に叩く。自分の体の一部のように扱っていた。
 しかし、ヒロの運転は横暴に見えるが、これといって荒い印象もなかった。むしろ丁寧を心がけているふうであった。信号が黄色から赤になろうとすると、速度を緩めて、停止にも気を遣う。止まるのがゆっくり過ぎて、座椅子につけている頭が離れないときのほうが多かった。
 車内に流れる邦楽が、全て同じように聞こえてきた。翔は暇になったのか、携帯を弄った。
ーーそうだ。夫婦橋に行こう
 翔は、ヒロの運転する姿を撮りながらインスタグラムに更新してみた。十分も経たないうちに、数件の返信がきた。
「美幸がわたしも行きたーい、だって」
「うそやろ」
 あだ名が「十六歳のママ」であった、高校時代に妊娠が発覚して中退した美幸からの返信を読んだ。翔は中学からの知り合いだったが、ヒロにとっては高校から知り合った女性で、これといって接点がないまま離れていった人だった。他人と同等だった。
「美幸、もう一人子ども産まれるらしいな」
 携帯を覗き込みながら、翔が問いかける。
 ヒロは生返事するしかなかった。誰やねんと突っ込みたかったが、それも億劫になるほど、田舎道を走っていたからなのかもしれない。
 右手には駐車場を広くとったコンビニが見えた。駐車する四トントラックの運転席に、ぼろタオルを顔に被せて、汚く燻んだ足をダッシュボードに乗せた、おじさんが見えた。見えたというか、将来の自分を見たというような感じだった。
 ヒロは親から創設された生コン会社に、義兄とともに仕事を賄っている。そして毎日、軽トラに義兄を乗せて各現場へと移動しているのだ。夏の季節になると、両方から出る男の汗と足の蒸れた匂いには勘弁する。もう義兄も還暦をこして、加齢臭も一段ときつくなっていた。
 ヒロは、こう使い古されたタオルや、投げ出された獣じみた足を認めると、瞬間的にではあるが、仕事の異臭を思い出してしまうのであった。
 翔は携帯をドリンクホルダーに入れて、窓越しに流れる田園風景を眺めていた。もう稲は新緑に染まりきって、ふと空を見上げるものなら、青の中にも薄く緑がうつしだされるほどだった。
 錆びれて寂しげな西松屋を通り過ぎた。押しボタンでしか信号が変わらないであろう横断歩道に、ベビーカーを連れた女性が立っていた。白色のワンピースに沢山の花模様を浮かべていた。黒のバケット帽子を被っていたため、表情は見えなかったが、おそらく二十代前半のような佇まいと潤いある肌をしていた。休日の散歩のようで微笑ましく思った。
「ずいぶんと若そうやな」
 ヒロも女性を見ていたようだ。
「同い年くらいちゃうか」
「せやろな」
「かわいい嫁さん欲しいわい」
 呟いたヒロの目を見ると、なんとなく哀愁が漂っていた。
 短大を卒業している翔にとって、ヒロがする女性に対しての憂いさが、社会人になってからようやく感じられるのだった。翔は女性とベビーカーを見ても、ありふれた一場面としてしか見ていなかった。
 短大では女性が占める割合は多かった。また保育系の大学だったため、九割以上がそうだった。翔において女性は、日常に溶け込めるほど多くいて、手を伸ばさなくても、あちらから寄ってくるので貴重に思えることがなかった。だから物憂げに発言したヒロを見ると、同時に可哀想で仕方がなかったのも確かだった。またその一連が偶発的に垣間見えるようなら、翔は二人の距離感に隙間が空いたようで寂しくもあった。
 
 昼食をとるため、定食屋に寄った。
 ヒロはカツカレー定食を、翔はかつ丼そばセットを頼んだ。
 テーブルに座り、定食が運ばれるや否やヒロは割り箸を歯で挟んだ。
「うまそ」そう言いながら、指と歯で箸を割って、カレーをかきこんだ。スプーンは使わないらしい。
 翔はその茶色の米をかきこむヒロを、口を開けて見ていた。
 正面のヒロの顔を改めて見ると、顎髭が生えていることに気づいた。眉毛も整えることを知らずに、もう少しで繋がりそうな勢いがあった。器を持った太い指、学生よりも屈強な体になった、ヒロ全てに勢いを感じた。
 翔は目の前の人物を、大学で過ごした空白の時間が形となって現れたような気がした。かつ丼とそばが安っぽく感じた。
 翔はいただきますを心の内で行い、割り箸を両手の親指と人差し指で割った。パキッと気持ちよく店内に響いたように感じた。
 ヒロが定食屋を決めたからなのだろうか。店内には現場仕事をしているであろう、薄汚ない作業着を着た男性たちが目についた。中には家族連れもいたのだが、雰囲気としては同じようなものだった。
 翔はこの店には、あの信号機で見た綺麗な奥さんは近づかないのだろうと思いながら、かつ丼とそばを交互に食べていた。
 二人の昼食をとる速度は異なっていた。
 ヒロは翔に対して食べる速度が遅いと感じたが、逆に翔は、進む時間が早いと感じていた。
「食べるん早くないか」
「飯なんて、腹に入れるだけやろ。味わうなんて、時間がもったいないわ」
 カツカレーの器は茶色の汁を残していて、縁に残る一粒が貧弱に底へと流れていった。
 ヒロは食べ終えた口元もナプキンで拭こうとしない。翔はもう少しで、やけん彼女も作れんのやと言ってしまいそうだった。言ってもよかったのだが、発言して安易に落胆するヒロの姿が浮かんでしまい、根に持ってこれからの道を進むことが想像できたため、言わなかった。そして、相手を思い遣っての行動をしている自分に酔っているようでもあった。
「早よ食べや、女じゃあるまいし」
 翔の少しずつ、つまんで食べる癖がヒロは不快に感じてならなかった。男なら豪快にと父親から躾けられた者にとって、翔の存在は歯痒かった。
 
 峠道がひたすら続いた。山々の稜線や擁壁ばかりが目についた。人影を消したトンネルが多く、抜けるも曲線を描いて道は続いていた。遠くの山裾には山茶花が咲いていた。
「山から血がでとらい」
 翔が可笑しそうに言った。
 ヒロの顔を覗き込むと、影に黒く染まったり、太陽に当てられて、にきびが噴き出たりして忙しなかった。
「もう着くと思うんやけどな」
「まだちゃうか」
「カーナビでは、あと三十分てでとるやろ」
「車、どこ停めるんやろか」
「ないやろな」
「行ってみなわからんけん」
「まあ、あるか。観光地やし」
「でも田舎やで」
「田舎やけん、あるんやろが」
 否定と楽観が行き来した。まだ着かない観光地に車内はひんやりと重い空気が張り詰め始めていた。
 運転してもらっているという謙虚さが足りない翔と、もうとうに離れてしまっているのに、戻ってくれたと勘違いしているヒロとには、隔たりがあったのかもしれない。行き交った経験の幅に、質に、まだ俯瞰して見れていない二人にとって、苦しく悩まされる時間が、この瞬間には確かにあったようだ。
「やっぱり丸木呼んどけばよかったか?」
 不意に出た翔の求めに、ヒロは
「そうゆうわけちゃうわ」自分を否定されたように感じた。
 車は山岳地帯に入ったようで、地元とは全く違った、静かで自然の底に埋め込められていくようだった。木々の葉が風になびくと同時に、小鳥の群れが飛び立つ音も聞こえてくる。車内の軽快な邦楽も、そこでは二人の鼓膜に響くようで上の空だった。何かに導かれているようで、不安でもあった。
 ヒロはハンドルを両手に握り直した。その姿を確認しながら、翔はなぜ夫婦の奥地である、夫婦橋に二人で行こうとしているのか改めて考えてしまった。おそらくだが、運転もしない翔から誘ったのだろう。高校卒業してからヒロとは疎遠が続いていたのは確かだった。だからこそかもしれない。翔は短大で出会った人間も、高校で出会った人間も、その場では大切だなんて思ってみても、行動することができないでいた。そのときに出会った人間よりも、過去の人間を慈しんでしまい重宝してしまう。過去を美しく書き換えて、さもあの頃のほうが自分らしくあったのだと勘違いしてしまうのだ。現実を直視できない、臆病者であった。
 場所はどこでもよかったのかもしれない。ただ翔の大学時代の彼女の友人が夫婦橋近くの出身だった。そのことも不意に頭をよぎって、別れた彼女の追憶のために理由をヒロに告げることもなく、遠出へ導いた。
 場所に近づくにつれて、翔はあの頃の彼女に会えそうな予感がして、また区切りを掴めそうな気がしてならなかった。もちろんヒロは知らないでいた。
 対してヒロは、久しぶりの連絡にも関わらず、快く翔を受け入れた。自分から積極的に行動しないヒロであったから、尚更そういった貴重な連絡を嬉しく思った。相手の価値観の幅に寄せることもなく、等身大の自分でいたために連絡があったのだと思った。根っからの臆病者に、偽の成果を与えてしまった。
 
 観光地近くの整地された駐車場が見えた。観光客が多く、賑わっていた。
 車から降りると、蒸し暑い空気が肌に触れて、汗がとめどなく流れてくるようだった。
 二人は早速、夫婦橋がある山道から車道にはみ出る行列を探して並んだ。
「こんなとこに男二人って、なかなかおらんで」
「家族連れが多いの」
「やけんよ」
 翔には行列を見ながら、でも高揚した気分になっているのが分かった。
「けっ、橋渡るんに金がいるんかよ」
「観光地ってそんなもんやろ」
 翔は使い汚された白靴で、大木の突き出た根を蹴っているヒロを、他人に見せるのが恥ずかしく思った。
 賑わう行列に、徐々に口数が少なくなる二人。山道へ入ると樹々の葉が日差しを遮り、幾らか涼しかった。木葉の揺らめく影が、山道を下ったところに並ぶ親子連れに当たっていた。光を遮ることのない夫婦橋は、眩しく、全貌を見せなかった。家族連れはその光のなかへ迷い込むように、意思のない人間のように歩いていくようだった。
 ヒロが先に橋を渡った。葛の欄干に手を置いて下を覗くと、橋の影が川の水面に、ちらちらと瞬きするように光っていた。さな木とさな木が離れては、くっついていく。覚束なくなる足元に、前では腰を屈める後ろ姿があった。一歩一歩と足を運んでいく。さな木の隙間が、消えては青色の空白を作っていく。二人の距離が近くなったり、遠のいていく。
 川では子どもたちが戯れていた。照りつける太陽が、子どもたちの溌剌とした生命にだけ降り注いでいるようだった。緑の侵食が、すぐそこまできているのに、その景色を美しいと思えたことが不思議に思えた。その間にも行列は進んでいき、あっという間に橋を渡り終えた。
「なあ、戻ってアイスクリーム食べようや」
 何事もなかったかのように、ヒロは微笑んだ。
 

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