空廻「笑ってれば」②

続いて、verse2を見ていきます。

最初の4小節は、"ai" または "iai" をメ韻としています。

5~6小節目は 「似た者同士」と「したと思うし」で7文字踏んでいます。気持ち良いライムです。

最初の4小節では "aaa" を有効活用しています。

また、2,4小節目の脚韻は、一聴しただけでは、「笑う」と「反射する」(”aau")だけで踏んでいることしか分かりませんでしたが、文字に起こしてみると、3~4小節目で"aiaaau"(「ないからヤツ」と「かりが反射する」)でも踏んでいることが分かります。

7~8小節目では「大丈夫」「ハイボール」「背徳」と畳みかけるように踏んでいます。

この8小節ではこの曲で一番好きなラインが登場します。それは5,6小節目の

もう不幸自慢は辞めた。誘い笑い呼ぶ幸福おじさんだ
俺は。

というラインです。

「苦しんでいる人を傍目に自分だけ笑ってていいのか」という曲のテーマである葛藤に対するずばり回答、といった部分ですが、その行き着く先が「幸福おじさん」というこのポップなフレーズであるところが、絶妙です。

その前の部分で「クズと呼んでもいい。俺をなんと呼んでももういっそどうでもいい。」と開き直っていく過程も含めてすごく好きです。

しかし、ただ”幸福おじさんだ”と言っただけでは印象に残らなったでしょう。「幸福おじさんだ」は「もう不幸自慢は」とこの曲最長の9文字踏んでいます。

韻を踏めば踏むほど良いわけでも、長い韻が無条件に素晴らしいわけでもないと思います。なぜなら、韻は詞(詩)に込めたメッセージをより音的にも心にも”響かす”ための技巧であり手段だからです(別にメッセージを重視しない、韻を踏むスポーツ的な曲ももちろん大好きですが)。

それをふまえると、このラインに最長のライムを持ってくるのは、理にかなっているし、とても効果的な韻の使い方をしていると思います。しかもさりげなく、押しつけがましくないのがポイントです。

よく効果的でなかったり、無理矢理韻を踏んでいることを「韻に踏まれてしまっている」と表現しますが、詩人でもある空廻はその逆で、韻を巧みに使いこなしていると感じます。

この8小節の後、2回目のHookです。

1回目のHookと3~4小節目、7~8小節目の歌詞が変わります。

特に、曲の歌詞としては

君も誰かを照らす月になるからさ。

という部分はverse2の、

ウザいくらいにお月様が 僕にハハハと笑う。
どうしても一人じゃ輝けないからヤツの光が反射する。

という箇所と繋がってきます。人を照らす「太陽」ではなく「月」というのがミソですね。

そして、outroともなるverse3です。このverseは圧巻です。

ずっと同じフローで乗せていきますが、"aaie” という響きで、16小節中、実に24個の韻を踏んでいます(「上がり目」「下がり目」の重複を含む)。また、前半の8小節では "uu" という響きでも5個韻を踏んでいます。

このバースはこうして分析するまでもなく、ただ聴いてるだけで如実に踏んでいることが分かる上に、「おお、まだいけるか!」という驚きや喜びのような気持ちが湧いてきます。つまりここでは、韻を踏み続けるいうことがしっかりと「芸当」として成立しているのです。

そして、文章・メッセージとして何の破綻もないので、韻を踏むことを目的化しているという印象は薄いです。というよりも、これだけ韻を踏み続けているにもかかわらず、韻に踏まれている印象を与えないのは、それだけメッセージや構成の強度が高いという証拠だと思います。

〜まとめ〜
空廻の他の楽曲を聴く限り、韻を踏もうと思えばいくらでも踏めるのだと思いますが、この曲ではメッセージを重視して、必要以上に韻に固執することはしなかったのではないか、という印象です。
かといって韻をおろそかにするのではなく、しっかりとメッセージを伝える技巧、道具として、ここぞという時に使っているという感じがしました。特にverse3は圧巻でした。

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