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Monthly log, June of oxymorons

みなさんおかわりありませんか?私はずっと、いっとう悲しくないと書けないと思い込んでいたのですが、全く悲しくないけれども溢れすぎて書けなくなってしまうこともあるんだなと知りました。だから、ソウルで書いています。

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peaceful conquest
5月の中旬に日本に帰ってきて、どう足掻いても自分を一番表現できる母国語で生活しているわけだけれども、自分が話す言葉や価値観、聞く態度とかこだわりを持つ姿勢、ユーモアを持ちながら生活をする術が、どんどんみんなに似てきている気がする!ふと、自分が話しているのか、それとも友達が話しているのかがわからなくなる時もあって、なんかそれもちょっと嬉しい。平野啓一郎が分人説を唱えていたけれども、接する人に合わせて自分を変えるよりも、今まで接してくれた人たち「が」私をちょっとずつ征服してくれてるんじゃないかなと考えるなどする。そういえば、この前初対面の面接官に「あなたのその感じは、色んな人と出会って色んな経験を積むことで磨かれてきたんだろうね」って言われたことをずっと反芻し続けている

はやく会って、どんなふうに私の考え方や話し方、装いや振る舞いが、みんなに平和的に征服されているかを話したい!!

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bittersweet
「うつくしい夕焼けをコックピットから眺めながら人生ってなんて美しいんだと思う時も、雷を必死に避けながら人生なんてクソだって思う時もある」
「パイロットもみんなと一緒だよ。人生も仕事も、悪いところばかりじゃないし良いとこばかりでもない、だからいいんだよ」

って渋谷から押上までの電車の中でたまたまおしゃべりしたドイツ人のパイロットが言ってた。これから成田に帰ってまたスイスまで飛行機を飛ばすらしい。
私にとって飛行機は、家から離れる一方で自分の全然知らない場所に行くというどうしようもない甘さと苦さを併せ持ちながら乗るものなんだけど、パイロットも甘さと苦さを感じながらその飛行機を飛ばしていると思うと、なんだか救われる気がする

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inaudible melodies
どうしても覚えておきたいのに、どうしても忘れてしまうことが悲しくて、日記に全てを書いていた時期があった。でも、そうじゃないのかもしれなくて、忘れずに私の中に残って反芻し続けるようなものが、私を構成しているのかもしれないと思うなどした。本当に大事なことは、多分聞き取れないし目に見えないし、覚えられないけど、多分自分の中知らないうちにひびきながら反芻しているんだと思う。

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気づいてお願い気づかないで
直視できない病がある。自分の血管も直視できないし、現実もあんまり直視できないし、好きなものとか人であればあるほど直視できないし、なんなら好きすぎるドラマの最終回も直視できていない。この悪癖の理由を考えてみたら、直視をしたらその先が良くも悪くもわかってしまうというか来てしまうのが怖いわけで、だったら直視せずになんとなく自分の脳内で補完して偽りの安心を得ていた方が良いからだなあということに気づいた!でも、直視しないとその先は来ないという当たり前の事実があるわけで、直視してからその先は不安だけどきっとどうにかなるだろうという想像力を持つことが大事なのかもしれないと思うなどした。人間関係も、好きなドラマも、現実も、confort zoneから一歩踏み出して直視しないと本当に望むことは起きないのかもしれない。

ガウディも「時折、幸福を感じるには想像力が必要です」って言ってたし

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frequency of silence
はじめて、今やっていることの上司?先輩?2人とご飯に行った!特に何も言わずにさもそれをするのが当たり前かのように、自然に相手のお酒のグラスから飲んでて、二人の関係性がすごい垣間見えて、楽しかったはずの話の内容を全部忘れちゃったんだけど、まあいいやと思っている。

言わないと伝わらないことと、言わない方が伝わることっていっぱいあるからこそ、残酷で優しくて傷つくんだけど、おもしろいんだよね

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humour of sorrows
最近、インタビュー中に「ユーモアって、愛だよね」と言われて、なるほどと思った。本当にそうだと思う。言いにくいことってそりゃたくさんあるし、人はそれぞれみんな違うわけだから、衝突することもあるだろうけど、明るくて誰も傷つかないユーモアと笑いに変えながら、できるだけ重大そうじゃなく伝えていくことって究極の優しさなんじゃないかなって思った。

そういえば、「本当に深刻なことは、陽気に伝えるべきなんだよ」って伊坂幸太郎の言葉を教えてもらったんだった。これも反芻かもね








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