見出し画像

Friday log #15 過透明なかなしみ


ゴッホのパレット

みなさんおかわりありませんか。ちょっと書く期間が空いてしまったのですが、ロンドンは雨の日もかなり少なくなってきてすっかり春が近づいてきました。春が好きです。

なんでこんなに期間が空いたかというと、ちゃんと勉強していたからです。この前書いた反省をちゃんと活かして、日々真面目に勉強していたら結構時間がないことに気づきました。でも、ちゃんと勉強しているからからこそ、遊びや友達と話す時間がより大切で、集中できて、メリハリを持った生活を送れています。

信じられないぐらい2学期が1学期に比べて楽しいです。なぜかというと、多分1学期にたくさん挫折したり失敗したり孤独感に苛まれたりしたけれども、それを全部乗り越えて、自分なりの解決方法を見つけたからこそ、今は知らず知らずのうちに問題を回避したり早めに解決できているからバランスが取れていて楽しいのだと思います。ちなみに、1学期の失敗を活かしてたっくさん栄養学の勉強をしたら、すごく詳しくなりました。こうやって失敗をベースに学んでいく人生は、ものすごく豊かだなあと考えるなどしました。

留学1年目で、1学期の失敗と2学期の安定という一つのサイクルを経験できたことはすごく良かったと思っています。今しんどくても、多分留学一年めの2学期みたいに楽になる時はくるのだろうな、それが3ヶ月スパンなのかもしれないし、1年かもしれないし、もっと長いかも短いかもしれないけれどもいずれくると思えることはすごく救いでもあります。もう少しだけ頑張ろうと、今後思えると思います。と思うと、すごく人生が楽しいし彩り豊かになるだろうなあと感じます。まあ2023年大吉なのもあるとは思いますが…。若さならではの自尊心の高さ、プライドの高さ、誰かに認められたい気持ち、マウントを張り合ってしまうような自分の価値が誰かよりも高いと思いそれを自分ではなく他者軸で認められたいという気持ちから少しづつ脱却しようと奮闘しているような気がします。どうしてもまだ残ってしまいますが、時間がかかっても少しづつ脱却したいなあ。

大学は、聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥の塊みたいな場所です。でもだから私は大学が好きなのだと思います。

9月から「なんでもいい」という単語と、「でも」という言葉を本当に封印しています。なんでもいいということは優しさでもなんでもないなあと感じると共に、なんでもいいと言われたら本当になんでもいいんだろうなあと思って自分のやりたいことを積極的にいうようにしています。

Reading Weekを使ってアムステルダムに行ってきました。元々、ゴッホと宮沢賢治が本当に本当に好きなんだけど、ゴッホ美術館に行ったら2人ともすごく似てるなあって初めて気づいてすごくびっくりしました。2人とも、農民作家だし、兄弟をなくしているし、37歳で亡くなっているし、亡くなる前に全く売れなかったし、宗教的なバックグラウンドがベースだし、本当に共通点がたくさんあります。ゴッホの絵が歪んでいる理由は精神病ではなかったと知って、ああゴッホも宮沢賢治も本当はすごく生きたかったんだろうなあって漠然と思いました。私は2人の、妹や弟をなくそうが、自分の才能が世の中に認められなかろうが、もがきつづけるとというか、どうにか生きようとする、すごく敬愛を込めたいい意味での粘り強さや執着が本当に好きです。ゴッホも宮沢賢治も、ものすごく伝えたいこととか、考えたこととか、葛藤とか、兄弟をなくす悲しみとか、いろんなどうしようもないことを経験してきたのだろうなあと思います。でも、そんな悲しみや辛さ、逆に嬉しさ楽しさを、そのまま横たわらせておくのではなくて、辛くてもなんでも直視して、作品に昇華することで、河合隼雄がいうような「過透明のかなしみ」というか、ただのかなしみではないというか、そのさらに上で神聖で、触れることができるようでできないような、決してネガティブな意味だけではない「かなしみ」になっているのではないかと考えるなどしました。私も、これから経験するであろう悲しみをただの悲しみで終わらせるのではなく「かなしみ」としていく人生を目指したいです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?