見出し画像

素直じゃなかったから今の自分がいるのかもしれない

私は前まで(今もだけど)「素直だね」と言われるような人間ではなかった。

というのも、幼い頃から「大人の欲している答え」がある程度わかってしまうタイプだったから。学校でも、家でも、「ああ、こう言って欲しいんだろうな」って思ってしまっていた。

実際、大人が欲しているであろう答えを言えば、その場は収まり、なんなら褒めてもらえる。自分が感じたままに言えば、嫌な顔や困った顔をされたり、怒られたりする。

そんなことが続いたから、私は「自分の中での答えを言うのをやめよう」「相手の気持ちを考えてから答えを出そう」というのが当たり前として過ごしてきた。


でも、当時はそれを良くないものとは思わなかった。どちらが良い悪いとかではないけれど、その場が丸く収まり、他の人が納得できるのであれば、自分の気持ちをわかってもらうよりもスムーズだと思っていた。

そうして過ごすうちに、「選択肢の多さ」に困ることもあった。「Aさんはこう思っているけれど、Bさんは反対だ」ということや、「この人の中には3つくらいの選択肢があるな」とか。

それでも、意見が合わなくて喧嘩をするというタイプの人はいなかったので、それぞれの納得できる回答を見つけていけばよかった。

「どうせこう思っているんだろうな」と想定と答えが合ってしまうから、私は悪く言えばひねくれているような時期もあった。



そんな感じで生きてきたら、それはもう多くの人の多くの選択肢を知ってしまうわけで。それは苦しくもあり、良いことでもある。

苦しいのは、言うまでもないかもしれないけれど「私ってどう思ってるんだっけ」とか、自分の感情が薄れていくこと。私は元から感情豊かな方ではなかったけれど、より一層薄くなった感じ。

自分の意見を通したいという気持ちは持っていないけれど、自分の意見がわからなくなってしまうのだ。


今だからこそわかるのは、私の中で受け取れる器が大きくなったと思うし、自分の意見を真っ先に大切にしていたら、受け止めきれない人間も出てきていたはず。

今、誰かのことを極端に嫌いになることも、対人関係で死ぬほど困ることもないのは、私が周りの人の考えを取り込んで、自分のキャパを広げることになったからだと思う。

もちろん、合わないなとか、程よい距離が必要だなと思う人はいるけれど、自分の中に取り込まずに受け取るだけで横に置いておくことができるようになっている。

自分なりの振る舞い方がわかっていれば、自分自身に振り回されることもなく、なんとか自分の存在を保つことができる。


それが、私なりの人間との関わり方なんだろうなと思える。




今の自分を肯定することはできないし、自分に自信を持つなんて遠い話だけれど、「認める」ってこういう感覚なのかもね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?