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情報保障と合理的配慮の関係 その2

前回からの続き。

合理的配慮の義務化という急ピッチな展開

もうこの4月から、合理的配慮はどんな事業者に対しても義務化します。といって、いろいろな発信が行われている。「努力義務」だと「努力はしました〜」で終わるから実効性がないことが問題視されてきたのだ。さらにいうと「過重負担」もやらない理由になるので、問題視されている。

とはいえ、事業者側に立てば、過重負担の記述がなければ、際限なく対応を迫られるという恐怖があるだろう。

そもそも当初から、当事者団体は「努力義務」みたいな中途半端な書き方を嫌っていたので、経過措置が終わっただけの話でもあると理解しておく必要がある。その1に書いたように、「障害者の人権」を取り戻すための国連の障害者の権利条約に沿った動きだ。

「合理的配慮」は前の記事にも書いたように、まず「対話」、つまりにべもなく「対応したことがないので無理です」みたいな反応をするなということであり、課されるのは「シカト禁止」「こちらができそうなことをヒアリング」「多少は手間がかかっても無理じゃなきゃやりましょう」という感じだ。

障害者差別解消法には「合理的配慮」だけでなく「事前の環境整備」条項があるよ

障害者差別解消法には、合理的配慮を求める第8条と、環境整備をしましょうという第5条がある。これが内閣府が一生懸命パンフレットを作ったりサイトを作ったりしている第8条。事業者が「合理的配慮」をするべきという条文。

(事業者における障害を理由とする差別の禁止)
第八条 事業者は、その事業を行うに当たり、障害を理由として障害者でない者と不当な差別的取扱いをすることにより、障害者の権利利益を侵害してはならない。
2 事業者は、その事業を行うに当たり、障害者から現に社会的障壁の除去を必要としている旨の意思の表明があった場合において、その実施に伴う負担が過重でないときは、障害者の権利利益を侵害することとならないよう、当該障害者の性別、年齢及び障害の状態に応じて、社会的障壁の除去の実施について必要かつ合理的な配慮をするように努めなければならない。

https://elaws.e-gov.go.jp/document?lawid=425AC0000000065

「不当な差別的取扱」は「社会的障壁の除去」をお願いしているのに「無視すること」「何もしないこと」のことだと理解しましょう。つまり、何かして欲しいと言われたのに、何もしないことが「差別」だといっている。

そして、「権利・利益」の侵害をしないように、という難しげなことばで言われていることは、「得られる結果が同じになるように」して欲しいという話だった。

社会的障壁というのは、社会がマジョリティである人々に最適化されて、参加しにくい状態にある(例えば、歩ける人を前提にしているから駅に階段だけでエレベーターがなかったり、電車とホームの隙間が意外と広かったりする)ことをいう。それを「除去」つまり、何らかの手段を講じることによって、アクセスできるようにすることを求めている。

この法律は、「障害者の話を聞いてできる範囲で対応して下さい」っていうものだと理解しておけばいいのだけど(だって、どうして欲しいかは、事前知識がほとんどない人より、当事者の方がずっとよく知ってる)、そのための下準備はもっと必要だよねというのが第5条。

(社会的障壁の除去の実施についての必要かつ合理的な配慮に関する環境の整備)
第五条 行政機関等及び事業者は、社会的障壁の除去の実施についての必要かつ合理的な配慮を的確に行うため、自ら設置する施設の構造の改善及び設備の整備、関係職員に対する研修その他の必要な環境の整備に努めなければならない。

ibid.

行政機関だけでなく「事業者」も、事前の「環境整備」の努力義務があるんです。駅にエレベーターをつけたり、サービス担当者に研修を実施したりしましょう。申込窓口になっている人が独断で「あーうちそういう追加のサービスはしてないんで」と断らないように、考え方を教えておく必要があります。

また、「必要な環境の整備」が結構肝で、障害者が来ることを想定していない運用になってると「そもそも人手を割けない」という状態になります。上の例だと、「ホームと電車の間が広くあいている」なら「駅員さんが板を持ってホームで待っててくれる」ような対応を見かけることがありますが、駅員さんが必要最低限しか配置されてなければ「この時間帯は忙しくて持ち場を離れることができる者がいないので、空いてるときに来て下さい」みたいな対応になる。すると、車椅子の人は、公共交通機関を使って仕事に行くなどで時間を守れないことになって社会参加へ不利です。そのための人員は配置しなければならないし、板も用意しておく必要があります。「いくつかの駅で使い回してるので今はありません」とかだと困っちゃいます。エレベーターの設置なんかは、されてないと詰むので、結構な補助金が投入されたし、点検とかで使えなくなることが前もってわかってるときは掲示がでてたりしますね(人手で車椅子ごと運ぶとか無理をすることに)。

これと同様に、社会で文字通訳とか手話通訳とかが必要な時に、予算措置もそうですが、できる人、使える機器が少ないとアクセスできる情報が少なくなります。

みんながそれを知るための研修も大事。人材育成も大事。そして、スペシャリストにお金を払ってやってもらえるようにするのも大事。この辺の事前の措置がなければ、第8条でいくら合理的配慮の義務化をしたところで、「そもそも支援をできる人がいないままで、社会参加ができない」みたいなことになってしまいますからね。

学会って交流に行ってるよね、という理解の通訳範囲までどのくらい

さて、情報保障サイドの話を。

私のメンターのいるUNM(ニューメキシコ大学)の言語学会(HDLS)では、パラレルセッション3室のうち、1室がずっと手話言語学セッションでした。これは当初からそうだったわけではなく、この大学の専属手話通訳がすごく技術が高いことを皆が知るようになって、「ここでなら安心して発表できる」と徐々に集まってくるようになったとのこと。特に認知言語学に強いのです。

UNMにはICLCの会長だった私のメンターSherman WilcoxだけでなくWilliam CroftとJoan Bybeeがいて、手話通訳養成もその言語学部でやっていて、つまりそういう認知言語学系の授業を手話通訳養成に関わっている講師のろう者も聴講していて、その通訳を常勤通訳者が担っていました。鍛えられてるわけです。こうした「環境整備」がなければ、手話での学問へのアクセスはかなり制限されることもわかります。UNMは全米で初めてろう者に哲学の博士号授与者を輩出した大学になりました。

ナヴァホ語とか記述系の研究者もいるし、州自体がメキシコ国境なのでスペイン語とのバイリンガルも多い多言語社会的な生活圏にあるという環境要因も大きいかも知れません。州ができた当初は、州法もスペイン語と英語の二言語で書かれていて、複数の言語を使うことが当たり前の歴史を持ってきた土地柄です。

そこの大学の言語学会であるHDLSでは、初日に手話通訳の様子を見て「私も手話で発表することにした」という手話研究者もいました。(手話通訳が自分の手話をいい英語にしてくれると信頼できないと、聞こえてくる音声に気を取られて手話での発表は不可能)

さらに、懇親会に10人くらい手話通訳が投入されていました。そのおかげで、ろう者の研究者と懇談することができました。私はアメリカ手話ができないので、手話通訳者が確保できない非公式懇親会に行くときは「あー通訳できる人はいるけどお金はないから、がんばって交流しな」と投げられ、ほぼジェスチャーゲームみたいなので交流したり、「今日はアメリカ手話できる人限定にするから」と最初から来るな宣言されたり。そうやって、どうやってやるのがいいのかいろんな実践があるわけです。もちろん、ギャローデット大学みたいに、基本的にみんなアメリカ手話、という場もあるけれど、私がUNMに行って良かったなと思うのは、通訳をどうやって育て、使っていくかの多様なあり方に触れられたからでした。

私は、日本語と日本手話の通訳さんたちにお世話になっているのはもとより、最近は、日本手話とアメリカ手話の間を通訳してもらってヒアリングをしたり、英語を日本語に訳しておいて、日本手話と日本語で読書会しようとしていたり、言語の壁をどう取り回すかいろんな試みをさせてもらっています。

文字通訳と音声認識

実は人手の文字通訳は、手話通訳より高くつきます。連携入力は1.5時間を越えると4人組で来ますが(2人1組で集中して入力し、単位時間ごとに交替、休憩しながらやる。メインが基本2名)、手話通訳者は3人で回せる場合も結構あります。少なくとも半日までなら4人は要求されないことが多い(立ってる通訳者がメインの1名で、フォロー役1人、休憩1人…まあギリギリだけど)。ただ、信頼できるパソコン文字通訳は、話し言葉の「けば」をちゃんと取ってくれて、わかりやすいように書いてくれるので、見ていて安心感があります。

最近は、音声認識技術が良くなってきていて、実用できるレベルというのは部分的には賛成できます。

こないだあとで見よう見ようと思ってた日本言語学会の「おうち英語」シンポジウムを自動生成字幕で見たら、ほぼ完璧なんですよ。YouTubeの音声認識機能は他に比べてイマイチだと思ってたのに。すごいすごい! 皆さん、話し方が上手だ。

しかし、サジェストで直後に出てきた福井直樹先生の言語学会会長就任講演を見たら、泣きたくなるほど認識されてませんでした。あらぬ言葉に変換されてたりして、うーん人間の耳って補正力すごいですね…(トップダウン処理か)。

自動認識を活用した業者の案内から、リスピークもやると書いてあることが多いので、前者のような、スピーカーと音声認識が相性がいい場合は、用語の修正のみ、後者だとリスピーク(人が耳で聞いて、機械と相性がいいしゃべり方にして入力)してからの修正になるんじゃないかな? と思います。これに関しては、話す人がどんな話し方をするか会場の音響環境がどうかなどに左右されそうなので、割と情報収集しつつも出たとこ勝負のとこもありそうです。

大学授業などの情報保障で「音声認識や補聴手段を使ってなんとかして下さい」とするとして、多分一部は役に立つ授業もあるだろう。でも、全然有効でなさそうな授業もありそう。専門用語を事前に先生が入力してくれてればUDトークもある程度有効なケースがこれから増えそうだと思います。

手話通訳ってそもそもオプションなの?

最近公的機関が実施する講演会には、「手話通訳あり」と書いてあることが増えました。ふらっと行っても手話通訳がいるのはいいですね。まあ、1000人に1人くらいしか幼少期からの手話話者がいないことを考えると、定員250人のホールでやる講演会に手話通訳がついていても、1人も対象者がいない可能性はありますが。高齢の難聴者はたくさんいるので(75歳を過ぎれば2人に1人は難聴)そういう人たちが手話を学ぶ意味になるかもしれません。

研究会を実施するということは、所属機関から会場を借りたり、マイクやプロジェクターを用意したり、出席者の交通費を払ったり、経済活動はそれなりにあるわけです。もちろんそれは、日頃からの延長ですが、全く何も持たない人がやろうと思ったらお金を払って借りる必要があるものです。

そうした場所に障害者が参加するときに、社会の側が使いやすい道具(研究者にとっての資源=大学の教室、プロジェクタ、マイク等)を用意していないので、実施主体は特別な追加費用として認識するのですが、もともと「本来、何度かに一度は払わなければならない費用だったが、障害者を排除してきたことで節約できていた」という認識に世間が変わっていく必要がある、という法的な建て付けになっています。

この考え方は、今の世間の「常識」からは遠すぎて難しいでしょう。私も、どうしてこんな目標が遠いんだといつも頭を抱えています。

日本の手話の公用語化の勧告

さらに、障害者の権利条約の委員会からは日本手話を公用語化せよという勧告が出ています。

例えば、手話を公用語化しているブラジルでは、公務員(教師、消防士や警察官などを含む)は、ブラジル手話を身に付けるか、できないうちは手話通訳を伴うという建て付けになっています。

公用語化するときに、世間の6%の人口(公務員の日本の割合)が手話をあるレベルでできるようになるために割かねばならない費用や時間を考えれば、ろう者の行動範囲に手話通訳を配置することは、ずいぶん安いのではないでしょうか。

まあその辺の話はまた今度。

(おしまい)


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