教師への「向き・不向き」はあります!【合格と不合格の分かれ目】第1話
癒し系の名言の中の一つに,
向き・不向きより,前向き。
という言葉がありますが,実は,この言葉にも限界があります。
確かに,自分があることに向いているかどうかで悩むよりも,そのことを前向きに捉えて,挑戦してみることが大切だということは,間違っていません。
その意味では,向き・不向きを考えすぎるよりも,前向きにチャレンジすることの方が重要にも思えます。
しかし,やはり,人には,向き・不向きがあるということは,謙虚に,そして,真摯に考察する必要はあります。
例えば,私(河野)は,プロ野球選手にはなれませんし,不向きです。
サッカー選手にも不向きです。
ピアニストにも不向きです。
きっと,芸能人にも不向きです。
私自身は,プロ野球選手にも,サッカー選手にも,ピアニストにも,芸能人にもなりたいと思ったことがありませんので,向き・不向きに悩んだことはありませんが,仮に悩んだとして,前向きに考えれば,何かが解決したとも思えません。
また,例えば,私が高校生の時には,成績的には,医学部に進学することもできたかもしれませんが,私自身が医師に向いているとは到底思えなかったので,医学部に進学することなど,考えもしませんでした。
自分の向き・不向きを,私は,それなりに,謙虚に,真摯に考えていました。
教員採用試験の対策講座を主催していて,感じることがあります。
それは,教師に全く向いていない人が,無理して,教師を目指している場合もあるのではないかということです。
特に,教師を単なる職探しとして選んでいる人に多いように感じられます。
また,その人の性格や人格,雰囲気からも,教師は向いていないという場合もあります。
別に,教師に向いていなくても,人間失格なのではありませんし,劣っているということでもありません。
ただ,教師に向いていないということだけです。
決して悪いことでも,恥ずかしいことでもありません。
向いている,向いていないは,誰にでもあります。
たとえ,私(河野)が俳優になりたい,歌手になりたいと思っても,向いていないでしょう(笑)。
人には,やはり,向き・不向きがあります。
不向きでも,追及する場合は,ものすごい困難が伴いますし,たとえ,なりたいものになれたとしても,幸せになれるかどうかはわかりません。
レトリカのモットーは,
なりたい人が、なりたい時に、なりたい場所で、教師になる。
それが未来の子供たちのためになるなら。
です。
「なりたい人が,なりたい時に,なりたい場所で,教師になる」なのですが,あくまでも,「それが未来の子供たちのためになるなら」という条件付きです。
正直なところをお話しすると,過去20年間,教員採用試験対策講座を主催していて,「この人は,教師には,絶対に向いていないな。」と感じる人も何人かいました。
そういう人のほとんどは,どんなに戦略を駆使しても,教員採用試験には合格しません。
たとえ合格しても,数年以内に辞めてしまいます。
でも,ここで勘違いしないでください。
不合格が続いている人が,全て,教師に向いていないのではありません。
教師に向いている,むしろ,教師が天職と思えるような人でも,不合格が続くことがあります。
養護教諭や保健体育など,高倍率で難関の場合,教師に向いている人でも,本当に教師になってほしいと感じる人でも,不合格が続く場合があります。
それは,受験倍率や難易度が理由であり,本人が教師に向いている・向いていないということとは関係がありません。
でも,教員採用試験を受験する人たちの中には,一部,どう考えても,教師には向いていない人たちもいます。
誤解のないように言っておきますが,その人たちが悪いとか,欠点があるとか,やる気がないとか,劣っているとかというようなことを言うつもりは全くありません。
ただ,その人たちは,教師に向いていないなということです。
向いている・向いていないというのは,なぜか,雰囲気に出てしまいます。
それが面接官に伝わって,不合格が続くことになります。
自分に向いていない職業に,延々とチャレンジするのは空虚です。
自分が本当に教師に向いているかどうかを考える機会をつくってもいい場合があります。
能力や戦略による不合格は,いつでも,合格に変えることができます。
でも,教師に向いていないことによる不合格を,合格に変えることは,極めて困難です。
河野は,スポーツ選手には向いていません。
河野は,医師には向いていません。
河野は,芸能人には向いていません。
それと同じように,
あなたは,教師に向いていますか?
河野正夫
レトリカ教採学院
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