教育の世界で本当に考える必要があること。言説に惑わされない。言説を使って自己の利益だけを追い求めない。言説を見抜く目を持つ。

【教育の世界で本当に考える必要があること】

私たちは,言説(ディスコース・ディスクール)というものに縛られています。

言説とは,とても難しい概念ですが,あえて説明すると,

「単なる言語表現ではなく、制度や権力・文化等と密接に結びついて,現実を反映するとともに,現実を創造する言語表現」

ということになるでしょう。

つまり,私たちが,言葉を使って話したり,書いたりするときには,知らない間に,潜在的に,一定の制度や文化に支配されていて,それに従った考え方しかできなくなっているということです。

新たな内容を考える際にも,既に決まっているそうした制度や文化で規定された言説に支配されていて,新たな内容を考えていても,結局は,既存の価値観でしか考えられていないということです。

このことは,ミシェル・フーコーをはじめとして,多くの20世紀の有名な哲学者によって指摘されています。

ちょっと難しくなりましたので,具体的な話で考えてみましょう。

テレビショッピングなどを見ていると,しばしば,

「この商品は,自然由来の成分を配合していますので,とても安心です。」

といった表現で,サプリメントなどを広告しています。

多くの人が,上記の売り文句を聞くと,安心するのでしょう。

でも,ここには,潜在的な言説が潜んでいます。

それは,

自然=安全

人工=危険

という言説です。

自然由来なら安全だけれど,人工的につくったものは危険という,客観的な根拠はないけれど,なんとなく情緒的に賛同できるような潜在的な考え方が,まさに言説です。

考えてみてください。

本当に自然由来のものは安全でしょうか?

「トリカブト」は自然の植物ですが,猛毒です。

毒キノコも,自然の物ですが,猛毒です。

「トラフグ」の毒も,自然由来と言えますが,猛毒です。

自然は安全とは言い難いことがわかります。

人工の物でも,体にとても良い薬もありますし,安全が保障されているものもあります。

要は,自然とか人工とかには関係なく,物には,安全なものもあり,危険なもの,猛毒なものもあるというだけのことです。

決して,一概に,自然由来のものは全て安全で,人工的なものは全て危険ということではありません。

ケースバイケースで客観的に分析すべき話なのです。

教育の世界でも,このような言説は,たくさんあります。

例えば,

教育は人間によってされるのがいい。

だから,

機械やAIでは教育はできない。

というカタチで,

人間=良いもの

機械・AI=あまり良くないもの

という図式が,言説としてできあがっています。

先日,ある講座で,次のような質問をしました。

「教師としての専門性をどのように高めていきますか?」

すると,ある受講生の人は,

「自分の人間性を高めて,一人一人の子供と向き合い,その子供の個性を見出して,伸ばせるような力を付けたい。」

と答えました。

回答自体は間違っていませんし,良い回答なのですが,私は,「それだけですか? 人間性だけなのですか? 他には,何かないのですか?」と追加質問しました。

でも,その受講生は,それ以上は,回答できませんでした。

ここで,専門職の一つである医師について考えてみましょう。

医師は,患者の命と健康を守るという重大な使命を持っています。

その使命を遂行する中で,現代の医師は,最新のテクノロジーを徹底的に使います。

レントゲン,CT,MRI,放射線治療,ガンマ線ナイフ,人工心肺,ありとあらゆるテクノロジーを駆使して,患者を診察し,治療します。

医師にも豊かな人間性は求められますが,医師は,ただ単に,「人間として,患者に接することを重視したい。だから,私は,聴診器と触診だけで,患者に人間として,直接触れることで,患者を診察したい。」などとは,決してい言いません。

使えるテクノロジーは,徹底して活用するのが,現代の医師でしょう。

医師は,そのテクノロジーの使い方,また,使った結果の評価を担当します。それが人間としての医師の仕事です。

教師も,教育機械,ICT AIなどを,どんどん積極的に活用して,生徒が,そういったテクノロジーから学べるものは,どんどん学んでもらって,教師は,そのプロセスを応援したり,困難が生じた際に助言したり,診断的・形成的・総括的な評価や激励をするという役割を果たすべきでしょう。

子供は,教育機械やICTやAIからも十分に学ぶことができます。

それを否定して,教師が人間として教えなければいけないというのは,教師の自己満足に過ぎません。

もちろん,テクノロジーの活用方法をプランニングしたり,その活用プロセスを助言したり,最終的な評価をするのは,人間である教師の役目です。

でも,使えるのであれば,AI等をどんどん活用することは,子供たちの学びに大きく役立ちます。

仮に,授業の80%がAIにとって代わられたとしても,それは歓迎すべきことです。

ちょうど,医師の診断の80%以上が,いまや,レントゲン,CT,MRI,超音波検診,血液検査などが占めているのと同じです。

いまだに,聴診器と触診と会話だけで,高度な医療の診断をしようとしている医師がいるとしたら,それは,患者の命を危険にさらすことになります。

医師は検査の結果の総合的な評価を行い,患者にインフォームドコンセントのもとで治療に関する決断を委ねる助言者の役割を果たすというのが,現代の医療の現場でしょう。

教師は,専門職とは言いながら,まだまだ,旧態依然とした言説に支配されています。

教育は人間と人間による営みという言説をあまりに信奉し過ぎていて,いくらICTを活用しても,それはあくまでも,教師が教えるための道具に過ぎず,子供たちが,AIから直接学ぶということを否定しがちです。

やはりここには,

人間=良いもの

機械・AI=あまり良くないもの,任せられないもの

という言説が存在します。

また,教育界に根強い言説には,

「みんな違って,みんないい。」

というものがあります。

もちろん,多様性を尊重し,祝福するのは,とても重要なことなのですが,教育界の「みんな違って,みんないい。」は,自由な議論による考え方の「競争」を排除してしまっています。

それぞれの人は,どんな意見を持っていようが,それは自由です。

ある意見を持つことを強制されることはあってはならないですし,ある意見を持つことを禁じられることもあってはいけません。

しかし,意見には,時として,「正しい」,「間違っている」の区別はあるかもしれません。

また,意見には,時として,「証拠や根拠によって支持される」,「何も証拠も根拠もない単なる感想」という違いがあるかもしれません。

さらに,意見には,「役に立ち有用」,「役にも立たず害悪」という違いがあるかもしれません。

つまりは,思想・表現の自由は存在しますが,それらの思想・表現の自由は,いったん考えが表明された後は,言論の場で,議論され,競争により淘汰され,より優れた意見が生き残るというのが,本来の姿です。

これは,学問の世界でも,まったく同じことです。

いろんな学説は主張されますが,最終的に生き残る学説は,証拠や根拠によって支持され,役に立ち有用なものです。

多様性を尊重するということは,間違っている意見すらも認めるということではありません。

表現の自由や,多様性の祝福が保証するのは,どんな意見を表明するのも自由で,意見表明を禁止されることはないということです。

その代わり,意見表明をした後に,その意見が批判されたり,その意見が間違っていると指摘されたり,より正しい意見が出ることは,当然,想定されなければいけません。

英語では,こうした,多様な意見が議論され,競争される場のことを,"marketplace of ideas" と言います。

いろんな思想(アイデア)がマーケット(市場)のように競争し合い,真に求められるものが生き残る,あるいは,高い価値を得るという考え方です。

ところが,日本の教育界では,自分がそう信じれば,それも真実であり,他人から批判されたり,否定されたりすることを極度に嫌がります。

まったく,幼稚な考え方です。

その昔,マッカーサー元帥が,日本人の知能年齢は12歳程度と言ったとされていますが,こういうところは,まさに,思春期前のレベルかもしれません。

本当の表現の自由とは,どんな意見を述べてもいいけれど,述べられた意見は,"marketplace of ideas"(思想のマーケット)の中で,議論され,批評され,批判され,淘汰され,価値があるとされるものだけが生き残るというものです。

保障されているのは,意見を述べる権利だけであり,意見が正しいと認定される保証など,どこにもありません。

さて,ここで,重要なポイントがあります。

このように潜在的に私たちを支配しているのが言説ですが,この言説は,あまりにも強力なので,この言説を使いこなせば,強力なマーケティング(顧客開拓)ができますし,強力な集票ができます。

言説をあえて道具に使う者は,常に,市場で勝ち,選挙で勝ちます。

でも,忘れないでください。

言説を道具に使っている人は,自分の目的を達成するために,言説をもて遊んでいるのです。

言説は,とても強力です。

言説は,人の心をすぐに射止めます。

教育の世界であれば,

「子供が求めているのは,人間としての教師です。」

「どんな考え方も間違っているということはありません。」

こんな言葉を言えば,ほとんどの人は,共感してくれます。

それが言説の力です。

でも,そのような言説は,子供は,時に,優れたテクノロジーで学ぶ方が得策だという分析を排除します。

そのような言説は,意見や学説には,証拠や根拠やメリットに基づく優劣があるという分析を排除します。

言説を使えば,簡単に,人を集めることができ,収益や集票に繋がります。

顧客開拓をしたい人,政治的野心がある人は,とかく,言説を駆使します。

人が聞きたいこと,言説で流されやすいことを,流布します。

それが,利益を上げる秘訣であり,票数を集める秘密だからです。

私が,いま,ここで言っていることを信じてください。

私は,過去に,政治家のコンサルタントや,有名企業のアドバイザーとして,言説を利用して,候補者を選挙で当選させ,企業イメージを向上させてきました。

そういう仕事は,上手くやれば,莫大な報酬も見込めます。

そんな仕事を,過去に行って,たくさんの報酬をもらった人間だからこそ,そんな言説を利用したメッセージ発信を,今は,心から嫌悪しています。

言説を利用すれば,欲しいものは,ほぼ何でも手に入ります。

でも,そうやって手に入れたものは,とても虚しいものです。

だから,私は,そういう仕事をやらなくなりました。

言説で人を動かして,自分の目的を達成しても,そこには虚しさしか残りません。

そんな虚しさが嫌でたまらなくなり,私は,言説で人を動かす仕事から遠ざかりました。

この辺りの話は,明日,また,書いてみたいと思います。

明日は,

「そんな時代もあったねと,いつか話せる日が来るわ。あんな時代もあったねと,きっと笑ってはなせるわ。(中島みゆき)。」(笑)

と題して,お話しします。


河野正夫
レトリカ教採学院


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