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組織における情報の非対称性を「管理」と考えるか「無駄」と考えるか

先日社内システムの要件を議論していて、ある従業員が作ったレコードを自部署の人だけが見られるようにするのか、全従業員が見られるようにするのか(特に権限制御を入れないのか)でもめました。私は権限制御を入れることを「無駄」としか思えずこれが議論になること自体理解できなかったのですが、権限を絞りたいと主張する側の意見を聞いて、どうやら彼らは情報を特定の人だけが見られるように制御することを「管理ができているいい状態だ」と考えていることがわかりました。これについてシェアします。

組織における情報の非対称性

この記事では、組織の中において、ある情報を知ることのできる人と知ることのできない人がいることを組織における情報の非対称性と呼びます。

組織が大きくなるにつれ、必ず情報の非対称性は発生します。小さな組織では全員が全員とコミュニケーションを取り全ての情報を共有することができます。しかし、組織が大きくなり人数が増えてくるにつれ、全員が全員と情報共有を行おうとした場合、コミュニケーションコスト爆発的に増えていきます。そのため、組織の中に部署や階層を作り、コミュニケーションコストの増大を抑えます。その結果、ある情報を知ることができる人と、できない人が生まれます。

この組織における情報の非対称性に対して、大きく二つの捉え方がされているように思います。それぞれの考え方について、実際の経験をもとにまとめてみます。(私は後者ですが、できるだけ中立を目指しました)

情報の非対称性を「管理」と捉える人々

情報の非対称性を統制・管理だと捉える人々がいます。彼らは情報は必要だと思われる人だけがアクセスできるようになっている状態を「情報を統制・管理できている好ましい状態」と考えます。

そして、予め決められた範囲を超えて情報にアクセスしたいときには必ず「承認」が必要となります。この承認行為によって、情報の取り扱いに関する責任の所在を明確にすることを望みます。そのため、情報の非対称性を「無駄」と捉え積極的な情報の共有を求める人に対しては、「無責任だ、誰が責任を取るんだ」と指摘します。

情報の非対称性を「無駄」と捉える人々

情報の非対称性を「無駄」と捉える人々がいます。彼らは情報の見える範囲を制限することは、組織の中で「信頼できる人」と「信頼できない人」を分ける行為であり、メンバの組織へのコミットメント、モチベーション、創造性を低下させると考えます。

そして、その組織のメンバであれば、可能な限り多くの情報に常にアクセスできるべきだと考えます。そこに「承認」は不要で、個人個人が責任を持ってその情報を扱うことを求めます。そのため、情報の非対称性を「管理」と捉えルールやプロセスに基づいて情報を扱おうとする人に対しては、「無駄だ、それぞれが考えて仕事すべきだ」と指摘します。

目的を考える

この二つの考え方は、常にどちらかが正しいものではありません。Netflix社の社内文化に関するNO RULESという本に「コントロール(管理) vs コンテキスト(自由と責任)」として似たような議論がなされていました。この書籍では、どちらを採用すべきかを選ぶための質問として、次の記載があります。

その会社の目的がミスを防ぐことか、それともイノベーションか

ミスを防ぐ、つまり安全第一が目的であれば、確かに情報の取り扱いを個人に委ねるのではなく、システム的に制御してしまう方がよい、ということになります。実際に冒頭の議論でも、「管理」をしたがっていたのはミスを防ぐことが重要な、オペレーション業務をやっているメンバでした。

一方で、イノベーションを追求する場合、ミスを犯すことを恐れるよりも、管理することによる無駄をなくし、積極的な情報共有から新しいアイデアが生まれることを期待するでしょう。

冒頭の議論によって、同じ社内でも情報の非対称性に対して考え方が全く違う人が社内に存在することがわかりました。こうした考え方の違いを理解せず、お互いの主張をぶつけ合うと議論が平行線をたどってしまいます。(実際にそうなりました…。)異なる考え方があることを理解した上で、何のために権限を絞りたいのか、何のために情報を公開すべきなのか、お互いがもう一段階上位の目的を見据え議論ができるとよいのではないでしょうか。

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