個性のありか
AI時代において、人間同士だけでなく、AIと比較しての独自性や個性も求められるようになってきており、個性がこれまで以上に重要視されています。そんな個性について、面白い解釈を読んだので共有します。
個性とは身体?
養老孟子先生は『ものがわかるということ』の中で「身体こそが個性である」と喝破します。
極論かもしれませんが、「大谷選手の身体は真似できない」という主張はシンプルながら確かに説得力があります。我々は心や考え方に個性があると考えてがちですが、その場合、心や考え方そのものが違うと、他者の個性を理解したり、共感することができなくなるわけですから、確かに意識や心は「同じ」であり個性はないのかもしれません。
どう個性を見つけるか
「個性は身体なので、既に一人一人が個性的である」と言われても、それで安心できる人は少ないでしょう。個性を理解し、気づくためのヒントになるのが次の一節です。
師匠の教えを徹底的に守り真似しようとしても、身体は二つとして同じものがないため、どうしても同じようにはできない部分が生じるということです。
この一節を読んで、これこそが芸道や芸術における「守・破・離」ではないかと感じました。多くの引用で、「破」は能動的に起こすものだと解釈・説明されますが、どちらかというと自然発生的な、受動的なプロセスかもしれません。そして、それに気づいて意識的にその個性を伸ばしていくことが「離」だと言えます。
芸道や芸術ではなくても、単に体を動かすことは、自身に備わっている個性を再認識するための一つの手段だと思います。私は定期的にパーソナルトレーニングに通っているのですが、トレーナーさんの指示されながら同じように体を動かそうとしても、身体つきや経験、柔軟性の違いから、どうしても同じようにはできません。それでも、自分の身体にあったやり方は存在するのです。
以上です。
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