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ドイツ東方防衛の要マルク・ブランデンブルク

ブランデンブルクという名を知っているだろうか。
音楽をかじっている人ならブランデンブルク協奏曲、ドイツやベルリンを知っている人ならブランデンブルク門という建造物として、その名を知っていることだろう。

では、ブランデンブルクとは一体どのような地域なのだろうか。

現在のドイツでいえば、ベルリンを囲う州<Land>として1990年のドイツ再統一以降存在している。
では、その成り立ちとは如何なるものだったのか。

1.マルク・ブランデンブルクという名称
マルク<Mark>の語原はラテン語のmargoとされ、英語のmarginの語原であり「縁」という意味で、通常「辺境」と訳される。
カロリング王朝時代のオットー大帝(初代神聖ローマ皇帝とされる)の治世に、神聖ローマ帝国の軍事的護りのために、帝国のVorland(前進地域)に置かれた境界地域の制度がマルクであった。
そのようなマルクはいくつかあり、例えば西の境界ではブルターニュ・マルク、南西にはスペイン・マルク、南東にはパンノニア・マルクといった具合に、帝国周辺の地域にそれぞれ置かれていた。それらマルクはそれぞれいくつかのGrafschaft(伯爵領)に区分され、その支配権を持ったのがMarkgraf(辺境伯)である。
9世紀の終わり頃からスラブ人、ハンガリー人など東方民族の移動、侵入が始まり、オットー帝はこの帝国東部境界にもマルクの制度を導入し、936年エルベ川下流の広大な地域をマルクとした。このエルベ・マルクは分割されて、北方のNordmark、ザクセンのOstmark、およびMark-Meißenの三つのマルクという形で定着していく。そのうち、エルベ、オーダー両川に挟まれたNordmarkの地域がやがてマルク・ブランデンブルクとなる。
マルク・ブランデンブルクは、当初は幾つかのMarkeのうちの一つだったのだが、普通名詞Markは次第に固有名詞のごとき重みを加えられて、単にdie Markといえばそのままdie Mark Brandenburgを指す呼称として用いられだしたのである。

2.マルク・ブランデンブルクの成立
ブランデンブルクという国は、「ホーエンツォレルン家が統治するようになってからが本番」というところがあるように思う。
だがしかし、忘れてはならない、エルベ川が東国境であったドイツという地域をさらに東に拡大させた、初代ブランデンブルク辺境伯であるアスカニア家のアルブレヒト1世のことを。ドイツ東方進出を進めた第一人者である「アルブレヒト熊公(ゆうこう)」を。ちなみに、熊公や獅子公などの名前に付属されている名称は、名前の種類が現代ほど多くないがための識別記号のようなもので、熊公はアルブレヒトが持っていた盾に描かれていたのが熊であったことが由来という説がある。
1157年6月11日アルブレヒトはスラヴ人の軍からブランデンブルク(・アン・デア・ハ-フェル)を奪回し、これがブランデンブルクの始まりといわれている。そして、同年10月3日にアルブレヒトは辺境伯に任ぜられた。
マルク・ブランデンブルクの立ち上がりは決して平和ではなく、スラヴ人との争いは絶えなかった。アスカニア家の時代は、統治者は様々な政策を行った。
アルブレヒト1世の息子のオットー1世は領地拡大よりも、現在の領地にて支配を強めることによって、辺境伯という地位と領土を安定させることを目的に活動した。
その孫にあたるヨハン1世とオットー3世の兄弟は二人で共同統治を行った。この二人は辺境伯領地の拡張を目的とし、神聖ローマ帝国の中のブランデンブルクの立ち位置を強化した。それは1256年にオットー3世がドイツ王候補になったところからもそれが読み取れ、また初めて皇帝選挙権を行使したのもこの二人である。二人が権力を握った時、ブランデンブルクは東方の取るに足らない小さな公国であると考えられていたが、1230年代までには帝国内で確かな地位を築いていた。ベルリン・ケルンの双子都市を形成したのもこの兄弟である。
二人が死んだ後、ブランデンブルクはブランデンブルク=シュテンダルとブランデンブルク=ザルツヴェーデルの二系統に分裂するが、それぞれの後継者が途絶えた時、アスカニア家のブランデンブルク統治は終わりを告げる。

3.ヴィッテルスバッハ家とルクセンブルク家の時代
アスカニア家断絶後、ヴィッテルスバッハ家の皇帝ルートヴィヒ4世が宿敵ハプスブルク家とルクセンブルク家より優位に立つための権力基盤として、ブランデンブルクをヴィッテルスバッハ配下に組み入れた。このような領土拡大政策は、教皇や諸侯の反発を招いた。
ルートヴィヒ1世は8歳で皇帝である父親からブランデンブルク辺境伯を譲られたが、1351年には異母弟のルートヴィヒ2世に譲渡している。ルートヴィヒ2世は1356年のルクセンブルク家の皇帝カール4世の金印勅書により選帝侯の一人に選ばれた。
1364年に皇帝との間で、兄弟に子供がない場合はルクセンブルク家にブランデンブルクを譲渡すると取り決めたが、ヴィッテルスバッハ3代目の統治者となるオットー7世の時代、その取り決めがあったにも関わらず皇帝カール4世はブランデンブルクに侵攻。1373年にブランデンブルクはルクセンブルク家に買収される形で、統治者が変わる。
ヴェンツェルは皇帝カール4世の息子で、ボヘミア王を兼任しており、ブランデンブルクよりもボヘミアの統治に力を入れていたため、選帝侯位は1373年に異母弟のジギスムントへと譲渡している。また1388年には従弟のヨープストに選帝侯位を譲っており、長い在位期間は続かなかった。
ジギスムントはヴェンツェルの後に神聖ローマ皇帝となっており、その頃オスマン帝国軍に十字軍を結成して挑んだが大敗。捕虜になるところを、ニュルンベルク城伯フリードリヒ6世が助け出した。これが、ホーエンツォレルン家がブランデンブルク選帝侯領に関わることになるきっかけとなった。

4.ホーエンツォレルン家の統治の始まり
ジギスムントに功績を買われたニュルンベルク城伯フリードリヒ6世へ、ジギスムントがブランデンブルク選帝侯を与えた。元々フリードリヒ6世はブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯として父の遺領を継いでいたのだが、深刻なフェーデの後にアンスバッハの運営を投げ出してジギスムントのための仕事に邁進しているところだった。この頃の選帝侯はジギスムントだったが、代理としてフリードリヒ6世が皇帝選挙へと参加しており、ジギスムントの選挙に一役買った。この功に感謝し、1411年にフリードリヒを辺境領の管理者に任命、1415年に世襲のブランデンブルク辺境伯位と選帝侯位を授けられた。しかし、当時のブランデンブルクでの絶え間ないフェーデや軋轢にさいなまれたフリードリヒは、1425年に長男ヨハンに辺境領の運営を任せてニュルンベルクに帰ってしまった。
次男のフリードリヒ2世が後を継ぎ、2代目のホーエンツォレルン家の統治者となる。1443年にベルリン王宮を建設したが、住民達には猛反発を受ける。これまで自由都市であったベルリンはその特権を失った。
三男のアルブレヒト・アヒレスは1440年の父の死後にブランデンブルク=アンスバッハ侯領を継承、また1457年に長兄ヨハンの退位によりブランデンブルク=クルムバッハ侯領を相続し、1470年に次兄フリードリヒの退位によりブランデンブルク選帝侯位を獲得。フランケン地方にほけるホーエンツォレルン家の全所領がアルブレヒトのものとなり、当時の有力諸侯の一人となった。また、家内法として選帝侯位はその時の最年長の息子だけがこれを継承することを定めた。

5.同君連合ブランデンブルク=プロイセン
ヨアヒム・フリードリヒは1605年から、精神を病んでいたプロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの摂政を務めた。プロイセン公国は長期間に渡ってブランデンブルク選帝侯の後見の下にあり、この後見はプロイセン公に嗣子無き場合の相続契約を含んでいた。
息子のヨハン・ジギスムントは、父の死によりブランデンブルク選帝侯を継承し、プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの死によりプロイセン公も相続、同君連合が成立する。

6.三十年戦争とプロイセン王国への道
ヨハン・ジギスムントが脳卒中で世を去った時には既に三十年戦争は始まっていたが、軍事費を調達できなかったために独自の兵力がなかったブランデンブルクは、無防備のまま各国に蹂躙されることとなる。
息子のゲオルク・ヴィルヘルムは決断力に乏しい君主であり、三十年戦争の混乱の中でカトリック側へプロテスタント側へと同盟相手をその都度変えたため、事態は混迷を極めた。敵味方を問わず略奪の対象となったブランデンブルクは領内の人口が半減したともいわれるほどで、三十年戦争においてドイツで最も大きな損害を受けた地域となった。1637年、比較的危険の少ないケーニヒスベルクへと家族と共に逃れた。
そして、1640年にフリードリヒ・ヴィルヘルムが父の死によりブランデンブルク選帝侯位とプロイセン公位を継承する。三十年戦争において中立を宣言し、戦争から離脱した。軍事拡張を政策に掲げ、常備軍の設置に必要な税制の整備を始めた、また、1655年からプロイセン公国の独立のために、ポーランド、スウェーデンと同盟相手を変えたり転戦を繰り返し、1660年に最終的な支配権を獲得、プロイセン公国の独立を果たした。オランダ侵略戦争においてはスウェーデンと戦い、1675年に当時の陸軍最強ともいえるスウェーデン軍にフェールベリンの戦いにおいて勝利している。その後、海軍を編成し、艦隊を率いて各地域へ遠征し、バルト海を支配するスウェーデンを始め周辺国を威圧した。これらの行いにより、フリードリヒ・ヴィルヘルムは「大選帝侯」と称えられている。
1688年に68歳で大選帝侯が没した後、息子のフリードリヒが後を継いだ。大選帝侯が残した常備軍の兵力は3万に上り、税制や移民を受け入れる宗教的寛容とともに、後のプロイセン王国を築く基礎となった。

7.プロイセン王国とその後
1701年にプロイセン公国はプロイセン王国として新たな道を歩み始める。
1806年に神聖ローマ帝国が崩壊した後、ブランデンブルクはプロイセン王国の一州として存在し続ける。
第一次世界大戦後はヴァイマル共和国のプロイセン自由州の一部となり、第二次世界大戦後はオーダー・ナイセ線以東はポーランド領に編入され、それ以外はソビエト連邦が占領。ドイツ民主共和国の成立によりその一州となったが、1952の地方行政制度改革により州制度は廃止され、ブランデンブルクという名前は地図上から消えた。
1990年のドイツ再統一の結果、新しいブランデンブルク州<Land>として復活することとなる。


参考:
Wikipedia
マルク・ブランデンブルク周遊記(最初のマルクの話)

Wikipediaまとめじゃなくて本で勉強し直したら消すかも。だいぶ前にまとめたやつのまとめだからあまり覚えてない(ドイツ版英語版のWikipediaであることは確か)(機械翻訳だから誤訳の可能性は多分にある)
そのうちコミケとかで歴史本出したいんだけど、何書けばいいのかわからないのだ…。

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