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After東京五輪~これから新体操はどこに向かうのか? <2>

村田由香里を擁する宝塚サニー新体操クラブの台頭

 2021年秋、北九州市で開催された世界選手権を最後に、新体操強化本部長を退任した山﨑浩子氏の後を引き継いだ現強化本部長・村田由香里氏(日本体育大学新体操部監督)は、2001~2006年に全日本6連覇を果たした名選手だった。2000年のシドニー五輪には団体メンバーとして出場、2004年アテネ五輪には、日本代表として個人競技にも出場した。
 村田氏も、1990年代のチャンピオン達(川本、山尾、松永)ら同様、ジュニアクラブで育った。しかし、村田は、それまでのチャンピオンたちが東京のクラブ出身だったのに対して、兵庫県の宝塚サニー新体操クラブ所属だったという点が違っていた。インターネットの普及で日本全国、いや世界中でさえも瞬時に情報が伝達される現在と違って、当時は、新体操の中心はあくまでも関東だった。ルール改正が行われてもそのルールが地方にまで浸透するには2年はかかると言われていた時代で、クラブチームが台頭し始めてきた当初、強豪と呼ばれるクラブはほとんどが関東のクラブだったのだ。

1992年に始まった「全日本新体操クラブ選手権」の功績

 その流れを変えるきっかけの1つになったのが、1992年に全日本新体操クラブ連盟(現:日本新体操連盟)主催の「全日本新体操クラブ選手権」が始まったことだろう。
 この大会は、いわば「予選のない全国大会」で、まだ予選を勝ち抜いて全国に駒を進めることが難しいチームでも、エントリーすれば出場可能だった。会場は幕張メッセやポートアリーナ、東京体育館など、選手なら一度はそこで演技をしてみたいと思うアリーナで、全国トップレベルの選手たちと同じフロアで演技できる! その魅力は大きく、その場を経験することによって新体操に対する打ち込み方が変わる選手も多かった。とくに地方のクラブにとってはおおいに刺激になる大会だったのだ。
 村田氏は、1996年に中学3年生ながらクラブ選手権で個人総合3位になり、その後、高1で2位、高2で優勝という実績を残している。(高2の時はインターハイでも優勝)
 全日本クラブ選手権は、第1回の参加選手数は239名にすぎなかったが、9回大会では618名にまでその数を増やしている。そして、関東以外にも、兵庫、熊本、岐阜、山形、新潟、宮城などから同大会で上位に食い込んでくる地方のクラブも現れ始めたのだ。

1998年「全日本クラブチャイルド選手権」誕生!

 また、全日本新体操クラブ連盟は、1990年代にもうひとつビッグイベントを生み出している。1998年から始まった「全日本クラブチャイルド選手権」だ。1997年までは全日本新体操クラブ選手権の中でオプション的な扱いで行われていたチャイルド部門(小学生の徒手競技)を独立させたものだが、これが当時の小学生やその親、指導者を熱狂させた。
 現代では、他スポーツでも「小学生から全国大会があること」の是非が問われおり、過熱を招く可能性も否定できないチャイルド競技ではあるが、当時としては大きな意義があった。
 クラブチャイルド選手権の3回目までだったと思うが、大会後に「合同練習会」が設定されていた。当時はまだクラブチームでもバレエレッスンを取り入れているところは少なかった。そこで全国の小学生が集まるこの大会で、当時からトップクラブだったジャスコ(現在のイオン)の指導者がバレエや最新のトレーニング法などを伝授していたのだ。出場選手とその指導者は参加できたため、熱心にビデオ撮影する指導者も多く、ここで学んだトレーニングをクラブでも実践することも多かったようだ。
 当時は、いわゆる「正しい基礎」を身につけている小学生は少なかった。チャイルド競技も一見凄い演技はしていても、基本的な部分はめちゃくちゃ、そんな選手がまだまだ多かったが、手具を持たない演技で競うため結局は「基本」で差がつく。このクラブチャイルド選手権の存在が、日本の小学生たちの新体操の基礎力を一気に押し上げたことは間違いない。
 日本の団体が五輪で5位という輝かしい成績を収めた2000年のシドニー五輪。そこに至るまでの10年は、新体操が関東中心から全国へと広がりを見せ、高校生以上のスポーツだった新体操がジュニア~チャイルドへと広がっていったまさに「拡大期」だった。
 新体操の裾野が広がり、五輪での活躍もあり、指導法も徐々に確立され伝達もされ始めたこの頃は、「日本の新体操の未来」は、明るいんじゃないか、そんな予感があった。   <続く>

20年近くほぼ持ち出しで新体操の情報発信を続けてきました。サポートいただけたら、きっとそれはすぐに取材費につぎ込みます(笑)。