おめでとうは難しい

よく聞いているインターネットラジオのパーソナリティが、子どもが生まれた事を報告する、音声をアップロードしていた。

生まれたのは10月末、この音声が公開されたのは大晦日。2ヵ月ほどの期間を空けての報告を不思議に思いながら聞いていると、生まれた息子はダウン症で、子どもに手術が必要だったりと、産後の対応が忙しかったようだ。
※ダウン症は染色体数に異常があり、知的発達の遅れなどの障害が起こる可能性がある。

ラジオの冒頭の”子どもが生まれました”という時には、「おめでとう」と素直に思った。しかし”実はその子どもがダウン症で”と続いた時に言いよどむんだ。おめでぅ、のような。

予期せぬ妊娠から出産という事情で、望まれぬ子ども、という場合はある。今回はそれとは異なり、子どもの誕生は望まれたものだ。そして、ダウン症。「おめでとう」という気持ちと、すっきりと「おめでとう」と言い切れない気持ち。
私はそのラジオパーソナリティと面識はないから、子どもの誕生についての、正直な感想だったと思う。今回のような具体的な、障がいのある子どもの誕生と離れた、空想的な気分としては、「障がいがあろうがなかろうが、子どもの誕生は無条件に祝福されるべき」と考えている。少なくとも、そう考えていると思っていたわけだが。

障がいがあるという事例から離れて、別のケースを想像してみる。誕生したばかりの子どもの顔から大人になってからの美醜、イケメンかブサメンかを想像するのは難しいが、一目見て「この子、将来絶対ブサイクだろうな」と感じる子どもがいても、こうした言いよどみは起きないように思う。現代の日本においてブサイクである事は、イケメンである事に比べ、生きづらさを感じやすい。しかし、その生きづらさはアクションを起こすのにイケメンに比べエネルギーがより必要になるという形の生きづらさで、機会の制限であって機会の断絶ではない。

「イケメンだったら良かったな」と若い頃に思う事はあった。だから「それでもブサメンでも何とかなる」とこれまで生きてきて、ブサメンの人生の難易度を低く見積もっている感はある。対して私はダウン症であった事はないので、その難易度を自分なら生きていけないレベルに見積もっているのかもしれない。

もし期待された通りの子ども、遺伝子を操作されたデザイナーベビーが生まれるにしろ、そもそも人間の子どもの誕生が社会的に祝福される事でなければ、祝われる事はない。同語反復のようだが、デザイナーベイビーでなければ祝福されない、誕生の際にデザイナーベイビーではない事が明らかになって祝福の言葉が途切れる、という事はさすがにない(だろう。今のところは)

現在ほど食料が十分ではない時代、食べ物をもらえない子どもは当然いて、そうした子どもが祝福のうちに生まれたかというと、むしろ呪いの中で生まれ、すぐに死んでいった。そうでなくても、病気やケガで子どもがすぐに死ぬ時代、乳児死亡率が高い時代は、誕生は祝福されても、留保付きでの祝福も多かっただろう。

生命を生かすという点で現代はより進歩を迎えているが、それでも生きるのがハードモードな状況で生まれる子どもはいて、私たちはまだそのハードモードをハードなままにしている。「ハードモード」は「ノーマルモード」「イージーモード」を前提とした言葉であり、全ての子どもがハードモードに生まれれば、それはノーマルモードになる。まぁそうした時代を、「クソゲー」と呼ぶのだろうが。

こう考えてくると、私が冒頭のように言いよどんだ事は、私自身の隠れた本音が差し込んだというより、立ち止まるべくして立ち止まったように思える。立ち止まった上で、祝福あれかし、と言い次ぐ事が肝要なのかもしれない。


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