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旅行記 グレジヨンへの旅 【中嶋 美紀】

エスペラントがあれば、またいつか会える


エスぺランティストが所有するフランス西部の古城グレジヨンで、毎年春に開催される合宿に参加した中嶋さん。現地で体験した、エスペラントをつうじた忘れられない出会いとは······(編集部)


夢のパスポルタセルボ

 グレジヨン城の春の集中コースについて知ったのは、ネットの記事 “uea.facila” を読んだ時のことだった。3~4年前だと思う。「お城に泊まって勉強」なんてすごい。いつか行ってみたいと思っているうちにコロナ禍になった。

 そして今年、コロナも明けるし、お金も貯めたし、長い休みも作った。私は、エスペラントで会話もろくにできないくせに、ホームページから申し込んだ。すると、丁寧なメールが返ってきた。ナント空港着の飛行機がおすすめ。宿泊や交通はエスペランティストが助けてくれる。すごいすごい。夢のパスポルタセルボ*!

*エスペランティストどうしが無料で宿を提供しあう民泊サービス

 ナント空港に着くと、ジャンイブさんが笑顔で迎えてくれた。「Saluton!」私の大きなスーツケースを持ってくれて、車に向かう。しかし、なんだか口数が少ない。車に乗ると、ジャンイブさんは言った。

 「エスペラントの会話は、まだあまりできないのです。」

 それは私も同じ。そこで、この状況もまた面白がる事にする。私たちは、カタコトのエスペラントと言葉のない世界で、意思疎通したり、笑って話題をあきらめたりした。霊長類研究で有名な山極壽一先生も、人類の進化史700万年のうち、言葉を使い始めたのが7万年前、人間同士はもともと言葉ではつながっていないし、言葉がなくてもつながれるって言ってた。言葉を知るには、言葉以前のコミュニケーションを体感するのもいいんじゃない?

ジャンイブさんと筆者
ジャンイブさんと筆者

「グレジヨン城は“心の家”」

 次の日の午前中、ジャンイブさんがナント観光に連れていってくれた。「ナントの勅令」が出された古城、植物園、パッサージュと旧市街、機械仕掛けの象、現代アート···町の歴史博物館には、エスペラントのガイドが置いてあった。

 ジャンイブさんは、夕方に用事があって、私の次の日にグレジヨン城へ行く。そこでお昼過ぎにバルバラさんが来て、車で連れて行ってくれた。

 バルバラさんは話好きで、私は一転して言葉の世界に入った。私にも理解できる簡単で明快なエスペラントで語ってくれる。イタリア出身でナントに移り住み、大人にイタリア語を、子どもにアートを教えている。平和をテーマにしたイベントでエスペラントを知り、学び始めた。

 「グレジヨン城はうちから近いし、毎年行っていて、“心の家”(kora domo)っていう感じ」

 おしゃべりをしながら高速に乗り、田舎道に入り、新緑の林を抜けると、グレジヨン城が現れた。

 レンガの飾りがほどこされた、白くて小さな城。メールをくれたベルトさんとジャニックさん夫妻が出迎えてくれた。日本の本も置いてある図書館、みんなが集まる明るいサロン、装飾的な壁紙が古城らしさを感じさせる食堂。飴色にみがかれた木の階段を登り、居心地の良い部屋に通された後、最初の夕食会があった。これから1週間、ここに泊まって勉強する。

脳の回路がショート寸前

 次の日の朝食後9時から授業が始まった。クラスは初心者・B1・B2・C1** に分かれていて、私が参加したのは初心者コース。マリオン先生のエスペラントもわかりやすく、全て頭に入ってくる。エスペラントでエスペラントを学ぶ事には不安もあったけれど、授業内容は初心者向けなので、先生の説明が勉強になる。バルバラさんもそうだけれど、教師という仕事をする人は、やさしい言葉の組み合わせで世界を表現することに長けていて、私はそういう言葉が美しいと思う。もちろん心のひだを表すような難しい言葉も美しいけれど、誰でもわかりやすいインクルーシブな言葉というのがエスペラントの核でもあるわけだし。

** クラスの記号 B1・B2・C1 は、それぞれ CEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)のレベル

 クラスメイトは、何かと暖炉の薪木を伐ってきてくれるフランス人のエルベさん、夫とキャンピングカーで来たフランス人のミシェルさん、そしてカタルニアから来たドリさん。ドリさんの彼氏のジョルディさんは、カタルニアはスペインの地方ではなくて国だと強調した。

 12時に授業が終わり、私は昼食の準備の手伝いをした。手伝うと、コースの料金を割り引いてもらえる。お皿とカトラリーを並べ、水を汲み、パンを大きなカッターで切る。前菜、メイン、デザートと、それぞれ料理ができたら運び、食べ終わったら食器を下げ、食洗機で洗う。

 午後は、希望者で遠足。天気にも恵まれ、季節は春、チューリップや桜など花々が咲き乱れていた。城の裏手には、「緑の道」と呼ばれる林道が通り、まずは城周辺の自然観察から。次の日からだんだんと行動範囲を広くして、緑の道を自転車で走り抜け、隣の町まで足を伸ばす。グレジヨン城のあるロワール地方は、古城が多いことで有名だ。グレジヨン城より大きくて豪華な内装の城や、教会、遺跡、昔の病院、氷を作る水車などを見た。

 夜は、有志が講演をした。エスペラントの哲学について発表したジャンさんの講演は、難しくて私には理解できず、「ホマラニスモ」などの単語をいくつかつかめただけだった。次の日、私に日本について聞いてくれたジャンさんがこぼした。

 「みんな、難しい話は好きじゃないみたい」

 話についていける人が少なかったようで、エスペラントの世界でよく起こる現象のようだと思いつつ答えた。

 「エスペラントの力さえあれば、私はそういう話、好きです!」

 バルバラさんや若い人たちとは、ゲームで盛り上がった。3色に塗られたピースの色を合わせて遊ぶ、フランスのゲーム。私は、言葉から解放されて楽しんだ。ずっと、わからない部分を予測しながら聴き、カタコトでしゃべって相手の想像力に頼って理解してもらい、3日目くらいから、脳の回路がショートしたような頭痛がしていたのだ。

来る前にもっと勉強すればよかった

 最後の夜、私たちはパーティを開いた。シモンさんのピアノに合わせて、みんなが踊り出す。クリスティンさんのアコーディオン。パントマイムからエスペラントの文章を当てるゲーム。ポーランドの詩とエスペラント訳の朗読···。私は、各国のジャンケンの言い方を聞いて、日本語で勝ち抜きをして、一番になったベルトさんに日本のお土産をプレゼントした。賑やかに、楽しかった1週間が終わった。

 パーティの翌日、KER試験** の口頭試問があったが、その間にも一人、また一人と城を去っていった。私はコースが終わったあと、帰国までの3日間で観光と旧友に会うためにパリに行くことにしていたが、飛行機はナントから日本に帰る。パリに行く間、大きなスーツケースをバルバラさんが預かってくれる事になり、しばしの別れを惜しんだ。

*** CEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)のエスペラント検定試験

 そしてついに、B1の先生でオランダ人のパーベルさんと、ポーランド人のカタジュナさんと、私の3人だけになった。私たちは隣町のアンジェを観光し、夜は私たちのために残ってくれたベルトさんと4人で食事をした。帰り道にスーパーでカタジュナさんと買ったアンジェのロゼワインをあけ、個人的な事から政治的な話まで語ったが、私の脳は限界を迎えていて、自分の話はあまりできなかった。この時ばかりは、来る前にもっと勉強すればよかったと後悔した。ポーランドがヨーロッパで一番多くのウクライナ難民を受け入れている話(他の国からの難民は受け入れていないらしい)、家族のことや旅行の計画など。グレジヨン城は、1日前と打って変わった静寂の中、夜が更けた。

 出発の朝。東京とオンラインでつないで、都区内エスペラント会連絡会の公開講座に出演した。久しぶりの日本語。朝食をとった後、アムステルダムに向かうパーベルさんの車にカタジュナさんと乗せてもらい、ル・マンでおろしてもらった。大聖堂やマルシェなどを見て、電車でパリに向かう。

エスぺランティストは一人じゃない

 時は遡り、グレジヨン城のコースの中盤頃のこと。

 「ミキ、日本で“森とまちの間”という言葉があったと思うんだけど、なんだっけ?」

 授業と授業の間の休憩時間に、C1コースのベルトラーノさんから話しかけられた。

 「森とまちの間?あー···(あれのことか···ああっ!日本語が出てこないッ!)」

 次の授業が始まり、もやもやしていたら思い出した。授業が終わってベルトラーノさんを探し出すと、お互いに口を開いてハモった。「サトヤマ!!」遅かったか······ベルトラーノさんはネットで調べてたどり着いたらしい。日本人として不覚。

 ベルトラーノさんとは、遠足で初めて話をした。パリに住み、合気道をやっていたこともある日本通だ。そしてベルトラーノさんが、パリを案内してくれることになったのだ。

 バスティーユ広場でベルトラーノさんと待ち合わせ、近くを散策してから「エスペラント・フランス」を訪問。そこでレジスさんが待っていてくれた。ウクライナの方が来た話や、日本最初のエスペランティスト・丘浅次郎の話、エスペラントと自転車で世界旅行をしたルシアン・ペレールの話など。

 そしてSAT-Amikaro**** に移動した。そこでは、フランスに住んでいる日本人のカズエさんほか、7人が集まっていて、昼食会を開いてくれた。

**** Sennacieca Asocio Tutmonda(国民性なき全世界協会) のフランス支部

 「ベルトラーノさんがパリを案内してくれるっていう話がなかったら、私はパリで一人でした」

と言うと、

 「エスペラントをやっていたら、一人ということはあり得ないよ」
という言葉が返ってきた。

グレジヨン城での催し物の出席者たち

別れのとき

 翌日、TGV(フランスの高速鉄道Train à Grande Vitesse)でナントに戻り、バルバラさんの家の最寄駅で待ち合わせした。3日しか経っていないのに、なんだか懐かしいような感じがして、再会を喜びあった。

 バルバラさんの家は、アートの先生だけあって手作りのもので彩られ、あたたかく、美しかった。小さな絵付きのびんや、ミニチュア人形や、こまごまとした雑貨が並ぶ、飾り棚。窓外の美しい風景と風にそよぐカーテンの絵が飾られた台所には、本当に窓があるようだ。観葉植物からのぞいているのは、粘土細工のカエル。2人の可愛らしいお孫さんの写真や、彼女たちが描いた絵も、大切に飾られていた。

 そしてバルバラさんお手製のディナーをごちそうになった。前菜は、シトラスのジュースと、香草のペーストをバゲットにのせたもの。白ワインをあけて、次はグレジヨン城でつんだ野草のスープ。深い緑の優しい味。メインは、ソーセージと、まるごとアスパラガスの炒め物と、ごはんのプレート。さらにグレジヨン城の野草のサラダのチーズ添え。デザートはイチゴとベリージャムをのせたヨーグルト。最高に美味しい、グレジヨン城の思い出フルコース料理だった。

 食事のあと、家の近くを散歩した。小さな街ながらなんでもそろっていて、映画館では日本の映画もかかっていた。そして近所の人たちと共同で持っている畑に案内してもらった。色々な野菜を育てて、ピザ窯もあり、みんなで食事したりするのだという。

 いよいよ、お別れのときが来た。バルバラさんが、車で空港まで送ってくれた。帰国してからも、この旅で出会った人たちとは、メールのやりとりやビデオ通話をしている。

 今まで生きてきて、並行して存在していたけれど、お互い知らなかった街と人に出会う旅。時に困難もあるけれど、美しい暮らし。エスペラントという言葉があるから、またいつか会える。

(月刊誌『エスペラント La Revuo Orienta』2023年7月号 p.4-7から)


機関誌『エスペラント La Revuo Orienta』2023年7月号
月刊誌『エスペラント La Revuo Orienta』2023年7月号


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