21世紀、ことばの壁はなくなるか—英語、機械翻訳、エスペラント—【木村護郎クリストフ】
第37回エスペラント公開講演会
(2020年10月10日都区内エスペラント会連絡会主催)
「ことばの壁」は英語と機械翻訳でなくなるか
大きな題名を掲げましたが、もちろん私は超能力者でも預言者でもありません。現状から出発して考えられることを予測したうえで、「ことばの壁」に対して私たちができることを考えたいと思います。
現在、人類を長く隔ててきたことばの壁が21世紀中に崩れるという二つの予測があります。一つ目は、英語教育がさらに進展してみな英語ができるようになるのではないかということです。これが「英語普遍化シナリオ」です。もう一つは、通翻訳技術が進むということです。これを「機械翻訳普遍化シナリオ」と呼びたいと思います。現在はこれらの二つの方向性が同時進行しているようにみえます。英語がますます浸透するとともに機械翻訳の技術が急速に発達しています。ことばの壁は、これらの言語や技術をつかいこなす一定の人々の間では、かつてなく超えやすくなったといえるでしょう。
しかし、この二つのシナリオが進んだところで、ことばの壁は本当になくなるでしょうか。英語については、英語を話せる人が増えたとしても、英語圏以外では英語学習のために多大な労力をかけなければならないので、その分、ほかのことに割く時間が減らざるを得ません。不公平性が生まれる、あるいは英語能力による格差が再生産されるということになります。一方、機械翻訳は、人間同士の伝えあいに伴うニュアンスが失われてしまうので、心理的な距離感という問題が生じます。このような不公正や心理的距離間は人間が関係を保つうえでかなり大きな役割を果たしています。誰かが一方的に優位であるという関係や、人間の心のひだにふれることができないコミュニケーションには限界があります。
エスペラントはなぜ生み出されたのか
このような、異なる言語の使い手の間の不公正と心理的距離感に着目した、第三のシナリオが、エスペラントです。エスペラント創案の背景からもう一度見直してみたいと思います。エスペラントを提案したザメンホフは当時ロシア帝国であったビアリストクという現在ポーランドの東部にある町で生まれました。彼は、そこに、「ロシア人、ポーランド人、ドイツ人、ユダヤ人などの四つの民族がすんでいました。言葉もそれぞれ違い、互いに対立していました。」と書いています。最後の部分に注目しましょう。「ことばが通じなくて困っていました」とは書いていないのです。これはかなり重要なポイントだと思います。つまり当時の状況を考えてみますと、ロシア帝国領で、ロシア語が一応、共通語として押し付けられていたわけです。ザメンホフも学校においてはロシア語を学んで、大学もロシアの大学に進学することになります。ですから、ある程度ロシア語が共通語として存在したと考えられます。もちろん、どこまでロシア語ができたかということは必要性によって大きな差があったでしょう。その意味では、現在の英語の状況に似ています。このビアリストクという小さな町は、現在の世界の縮図のようです。一応共通語として使われる言語はあるけれども、できる人もできない人もいるという状態です。
そしてさらに、ビアリストクにおいてはロシア人は少数派で、それ以外の言語も使われていました。異なる言語を話す住民が実際には市場などで商売をしていたわけです。現在風にいうと、ビジネスはできていたわけです。そこでロシア語を使うこともあったでしょうが、おそらくロシア語だけを使ったというよりは、中東欧の他の地域について言われているように、ある程度相手の言語がわかる状況があったのではないか、ということも考えられます。商売をするような人、例えばドイツ人の商人がいた場合、その人はポーランド語の基本的な表現も覚えたに違いありませんし、逆もしかりだと思います。ですから、この当時の人々が言語が通じなくて取引ができなかったということはないのです。このようにそれぞれの言語でなんとなくわかるという状況は、現在に置き換えると、機械翻訳が使えるような状況に似ています。機械翻訳も、モノを買ったりビジネスのやり取りをするとか、例えば病院に行って「私はおなかが痛い」ということを伝えるようなことはできる。逆に言うと、それ程度のことは当時のビアリストクでもできていたのではないか。つまり、意思疎通という観点では、共通語としてのロシア語に加えて、多言語間のある程度の相互理解で何とかなっていたと考えることができるわけです。いわば英語と機械翻訳がそれなりの役割を果たしている21世紀前半の今の私たちが生きている世界の縮図のようなコミュニケーション状況であったと考えることができると思います。
ザメンホフの究極の「理想主義=現実主義」
ですから、ザメンホフは言葉が通じないことに心を痛めたわけではないわけのです。ザメンホフの問題意識の原点は、同じ町に住みながら、住民が対立や誤解を持っていた、ということです。それは、「ことばの壁」による、先ほど見たような不公正や心理的距離感が一つの背景ではないかと考えたのです。そこで、不公正に対しては相互の歩み寄りが必要である、そして心理的な距離感に対しては同じ言語で話し合えることが必要である、と考えてザメンホフは当時の自分の社会の問題を元に、「人類人(homarano)」として共に作りあげる言語エスペラントを提案したわけです。この二つの課題、不公正と心理的距離感が、21世紀の世界にも当てはまるとすれば、エスペラントはすごく理想主義的であると共に、実に現実的です。つまりザメンホフはロシア語を広めれば問題は解決するとは思わなかったし、意思疎通が何となくできているからいいんじゃないのかとも思わなかったのです。ですからザメンホフが現在の世界を見たら、「英語が広がっているからもうエスペラントはやめよう」と思っただろうか。あるいは、機械翻訳が進んでいるからエスペラントは不要だと思ったかというと、まったくそうではないと思うのです。むしろ彼は、今こそエスペラントが意義をもつと思うにちがいありません。
エスペラントは、はじめにあげた二つの大きなシナリオが達成できないような、不公平、そして心理的な距離感を取り除く役割を、エスペラントを使う人々の間では既に果たしてきています。ザメンホフが抱いた「人類人」は、今なお地球上のほとんどの人間にとって実感がわかない考え方にとどまっています。しかし150年以上前の一般の人たちにとって、今私たちが自明に思っている「日本人」「中国人」「ロシア人」といった意識が浸透していなかったことを思うと、「人類人」を単なる夢想として片づけるわけにはいきません。民族主義が勃興して民族や国民としての「〇〇人」意識が一般化しつつある時代のただなかでザメンホフは、その行きつく先の問題をみていたのでした。国や民族ごとの分断が依然としてみられるなか、ことばの壁の根本を見据えたエスペラントの発想は少しも意義を失っていません。この第三のシナリオを地道に進めていくことは、21世紀を生きる私たちにとってやりがいのある活動ではないでしょうか。
参考文献
木村護郎クリストフ/渡辺克義(共編)(2009)『媒介言語論を学ぶ人のために』世界思想社[英語の現状とエスペラントの背景について]
木村護郎クリストフ(2013)「書評 英語のメガホンをとれ!:世界の英語化による公正のすすめ Philippe van Parijs, Linguistic Justice for Europe & for the World」『社会言語学』第13号、「社会言語学」刊行会、p.187-193[英語普遍化シナリオについて]
瀧田寧・西島佑編著(2019)『機械翻訳と未来社会―言語の壁はなくなるのか』社会評論社[機械翻訳普遍化シナリオについて]
永井忠孝(2015)『英語の害毒』新潮新書[英語と機械翻訳について]
本稿は、紙面の関係で講演の一部のみをとりあげています。都区内エスペラント会連絡会のウェブサイトから当日の講演を視聴できます[*]。
(resumo) Raporto de la prelego de Kimura Goro Christoph pri la temo “Ĉu la lingva muro inter homoj malaperos en la 21a jarcento? La angla, maŝintraduko kaj Esperanto”. La aŭtoro klarigas, komparante la nuntempan mondan situacion kun tiu de Bialistoko en zamenhofa tempo, ke la angla kaj maŝintraduko ne povas solvi la problemojn, kiujn Zamenhof perceptis.
[*] YouTubeで公開された講演動画はこちら。
(月刊誌『エスペラント La Revuo Orienta』2021年2月号 p.5-7から)