発達障害イエロー
発達障害には、ラベリング問題が幽霊のようにつきまとっている。
ADHDにしろASDにしろ、私って発達障害だから(笑)という自嘲気味な自己診断はよく見かける。
あるいは「医師でもない」一般人が別の一般人に、多くの場合陰口として「あの人はアスペだよね」などと言ったりする。
そうした素人診断は、一般良識的には嫌われる。
「本当に困っているひと」を侮辱していることにもつながるし、診断名を弄んでいるような印象ももつ。
私自身も、「周囲から困ったふうに扱われて、正式な手続きを経て診断を受けたひと」に何人もあってきたが、確かにこれは生きづらそうだ、と思った。そういうひとこそ「本当に困っているひと」であって、「楽しそうに、人生を問題なさそうに送っているひと」が発達障害を自称することは、逆の意味での僭称ではないか、と思わなくもない。
ただ、この話は、「ほんとうに困っているのは誰かを誰が判断していいのか」という問題にもなってくる。浜崎あゆみも、とても幸せそうに手をつないでいる恋人たちが、すべてうまくいっているように見えることに対して「真実(ホントウ)はふたりしか知らない」と歌っていた。
私は、誰が発達障害を名乗ってよく、誰が名乗ってよいかを判断することはできない。
この問題はいろんなところでも感じる。
また、発達障害は「グレーゾーン」があり、特性は0/100で出るわけはなく、あくまでグラデーションであって、「ある程度誰にでも当てはまる」「切り取り方次第」という言い方もよくされる。
これも説得力はあるが、グレーというのは色をぼかしてしているようで、実は明確に線が引かれている。「何か特性と呼ばれる集合体」があって、それを個々の人間がどこまで有しているか、という発想になっている。まるでADHDの化身、生きるほんものASDが存在しているような言い方である。しかし、腫瘍系の病と違って、発達障害や精神疾患において、「特性」を人間と人間の間から切り離すことはできない。
発達障害とは、事実上「人間関係」もう少しひろく、「社会生活」に関するものだ。
もちろん、発達障害をもつひとの五感の過敏/鈍麻はずっと言われているし、また最近では内臓、特に消化器との関連も研究されているが、しかしそれらも、「何らかの刺激への反応」であることは変わらない。
人間と人間がいないところに発達障害はないのだから、そもそもグレーゾーンという言い方もおかしいと思う。
ある発達障害をもつひとが、「その特性に見合った仕事」や「理解ある人間関係」を築くことはできる。また、「発達障害の特性を才能として活かした成功者」は事実としている。これもギフテッドなどのラベリング問題と関連して、反発もどちゃんこ買ってもいるが。
癌などは、どこにいても、どんな生活を送っていても癌として癌で存在している。
ロビンソンクルーソーが癌で死ぬことはありえる。けれどもしかしたら、ロビンソンクルーソーは発達障害だから生き延びたのかもしれない。
もう1つ、精神科医の兼本浩祐が「精神科医の普通という異常 健常発達という病」で、発達障害の特性をもつひとは、比較的自らに自律的な価値判断がある一方、いわゆる健常のひとは、「いいね」などの他者の承認によって自らの存在を確かめられる傾向、病をもっているという指摘をしている。
「いいね」をかなり欲している発達障害の特性をもつひとの存在はどうなるのか、というすぐ思いつく反論はさておき、これは普通であることもまた病的という意味で、ラベリングの逆転の発想ではある。けれど、普通⇔特性の壁はとても大きい。
何かを書き始めるとすぐ脇道にそれまくるが、これは、要は、どんどんラベリングしてよいのじゃないか、という文章だ。
「ラベリングして終わり」でも、「みんなグレーゾーン」でも、「普通も病気」でもない形。
確かに、自嘲的な自己診断はうっとうしい。また陰口はだいたい良い結果にならないし、こわい。
ただ、その不快さは、実は発達障害とは関係なく、「私って●●だから」という性質に関する自己言及、あるいは陰口そのものであって、●●や陰口の内容は任意ではないかと思う。そこに「医学的な本当の診断かどうか」は、理性的っぽいが、嘘だと思う。
「がさつ」「優しい」「繊細」「金持ち」「甘えん坊」「空気が読めない」「空気を読み過ぎる」
「優柔不断」「毒舌」「ぶっ飛んでる」
なんでもいい。誰かが自分で自分の性質を説明しているとき、うっすらとしたイラつきを感じる。これは他人への悪口へもすべて転用できるし、その内容は、今ならすべて「発達障害」に代替できる。
何かコミュニケーションがうまくいかない、あるいは何かに困っているひとと接したとき、つまり、ようはうまくいかないとき、とりあえず、自分やその人が発達障害ではないかと見立ててみる。すべての黄色信号を発達障害と名付けることだ。
発達障害と見立てることによって、何が起こるかというと、要は「意志」が消える。
自分やその人は、そのようにしようとして、そのようにしたわけではない。
これは「人間扱い」していない、残酷なように見えるのかもしれない。また、責任の追及も消えてしまう。
けれど自分や他人にしても、何かうまくいっていない状態のひとに、「なぜそんなことをしたのか」と問いかけても、ほとんどの場合、不毛な議論となる。
意志と責任を消したうえでしか生まれないかかわりの、あまりの豊かさと比較して。
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