ある中華屋のおもいで

サウナや町中華が流行っている、私も好きだが、私にとってそれらはわざわざ電車や車で「訪れる」対象ではない。あくまで徒歩か自転車、せいぜいどこかへのついでで行きたいだけだ。といって、遠征してそれらを目的としている人をどうとも思わない。

今住んでいるところにも、よく行く中華屋があった。

大きなテレビがあり、美味しんぼやゴルゴが並んでいて、私はよくエノキとベーコンを炒めたもの、ニラ玉なんかを食べていた。妙に日本酒に力を入れていて、亀齢や鍋島なんか置いてあったりもした。近所の住人や、演劇、バンドなどの練習がえりらしい集団が客として来ていたが、遠くからこの店のために来るひとはいないような店だった。コロナの間に休業、そして閉店してしまって、どうしたもんかと思ってしばらくすると、近所のスーパーで、そこのおばさんに会った。

閉店されてましたね、と聞いてみると「実は昨日旦那が亡くなって」と困り笑いのような顔をして答えた。急角度で日常会話に死が入ってきて驚いたが、「ずっと悪かったんですか」と重ねて聞くことができた。普通は一緒に店を営んできた夫の死の翌日にスーパーに行くものだろうか。普通なんてどうでもいい、その人は現に来て、何かを買い物カゴに入れている。買い物カゴの中身まで見ようとは思わなかった、気にはなったけれど見ることはなんとなくよくないと思った。「ずっと悪かったんですよ、一人になっちゃって。息子も就職して静岡に行っちゃったし」とまた困ったように笑いながら答えた。

「中華屋の息子」は、私より数歳上のようだった。ひょろっとして、黒髪の坊主、無精髭を生やしながら、よくサンダルを履いていた。私が日本酒を頼むと、嬉しそうに日本酒のことを語っていた。たぶん、日本酒はその息子が選んで置いていたのだろう。
とはいえ、日本酒は他のメニューにはどうも不釣り合いだった。息子はこの店が好きで、また憎んでもいたのだろうと思った。もう少し正確には、店に通っていた頃は、店を盛り上げようと日本酒の仕入れを頑張っていたのだろうと感じていたが、静岡に行った報せを聞いて、むしろ憎しみが強かったことに気づいた。

息子は、そもそも毎日店にいたわけではなかった。いるときも、店を出たり入ったり、なんだかそわそわとして落ち着いていなかった。たまに、テレビでロックバンドのDVDを流していた。ブルーハーツとジュンスカが多かった。浜田省吾の時もあった。私はどれもそんなに好きではないが、懐かしいですね、みたいなことは言った。「音楽好きなの、じゃあベース弾ける?」と聞かれた。

私は全然弾けないと伝えたが、息子は店の奥からベースを持ち出してきた。そして弾いてみてよ、と言われたので、多分センスいいひとが30分くらい練習すればできるくらいの演奏をした。せいぜい、同じ音を8分で弾いたり、レイジの簡単なリフ程度。そうするととても喜んでくれて「それじゃ三線も弾けるんじゃない?」と言われ、本当に三線が出てきた。「お客さんにもらったんだけど、全然弾けなくて」三線をあげるなんてどんな客だとは思いつつ、褒めてもらって調子に乗ってきたので、ベースより大胆にペンペラペンペラと三線を適当に弾いた。「おおすげー、今度曲教えてよ」と言われた。私はいやー、とか言いつつ、その気になって三線を買ってしまった。それから何度かは店に行ったが、息子には、道で一回会ったか会っていないかだと思う。

もう少し踏み込んで連絡先を交換しておけば、もっと仲良くなかったかもしれない。関係にならなかった関係の可能性ばかりたまっていっていく。しかしそもそも私も、三線は買ったものの、もっと仲良くなりたかったか、わざわざ連絡を取って飲みに行くかと言われたら、別にそうでもないと思う。たとえば帰省した息子とバッタリ会っても、挨拶くらいはして、お店の話はするけれど、それじゃ今からどこかで、とはならない。

向こうもそんな感じだろう。もちろん向こうが本当に私のことをどう思っていたかはわからないが、嫌いな人に愛想をふりまいたり、わざわざ三線を弾かせて、下手くそが調子に乗ってとこっそり笑っているタイプには思えなかった。ただ嬉しいときに笑い、カッコいいものが好きという青年のように思った。そして店を継ぎたくないと思い、母を残して静岡に行った。残された母は、閉店しましたの文字の裏で寝起きし、今日もスーパーで買い物をしているだろう。またもし会ったら、息子さんはお元気ですか、とだけは聞いてみる。

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