村上春樹が直したもの、新作に備えて

もうすぐ、新潮社から村上春樹の新作『街とその不確かな壁』が発売される。とても楽しみだ。もし「村上春樹の単なる新作長編」であれば、こんなに楽しみではなかったと思う。

すでに言われている通り、村上春樹は『街と、その不確かな壁』というタイトルの小説を、1980年に『文学界』で発表している。しかし、本人が出来に納得していないという理由で、単行本化されていない。

40年の歳月はなかなか大きい。まず、その執着する力に驚く。

そして、この表層的なことならなんでもすぐにわかる時代に、以前の失敗作と事実上同じタイトルで新作を発表するのは、これは「書き直しの作品だ」と意図的に表明している。

新作に備えて、封印された『街と、その不確かな壁』を手に入れて読んでみた。Wikipediaにも記載されている通り、この旧作は、2つの世界が並行して進む『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』の、『世界の終わり』パートに極めてよく似ているし、本人も別に隠してもいない。

だから、新作は以前の失敗作に再度挑んだというだけではなく、以前の失敗作を書き直して、すでにいい感じに成功したにもかかわらず、もう一度失敗作を掘り起こしてきた、リリライトの形となっている。

1980年代後半生まれの僕にとって、村上春樹は「リアルタイムの作家」と言えるかどうか、ギリギリのところにあると思う。
「親世代がよく読んでいて最近はあまり読まれていない、亡くなっている、亡くなりつつある作家たちと、実は村上春樹もほとんど同世代だった」という印象を人生で何度も受けているが、世代論をくたくた述べても仕方ない。
高校生の頃、『海辺のカフカ』が発売された。発売と同時に勢いよく読んできた。けれど、どうも過去作ほどは面白いと思えなかった。
今回のリリライトは、風の歌を聴け、ねじまき鳥クロニクル、世界の終わり、そうした、面白かった過去作をリアルタイムで読むことを擬似的に体験できるはずだ。


そして、この封印作は、順序として、村上春樹の転換点に位置している。

村上春樹の初期中長編は、出版年でいうと
『風の歌を聴け』(1979年)
『1973年のピンボール』(1980年)
封印された『街と、その不確かな壁』(1980年)
『羊をめぐる冒険』(1982年)
『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』(1985年)
となっている。

この、封印作と「羊」の位置関係が面白い。逆だったらつまらない。
「羊をめぐる冒険」までは、同じ「僕」が語り手で鼠との関係が主に描かれていて、「鼠3部作」とも呼ばれる。後追いで読んでいると、この3部作はもとからそう構想されていたかのように読んでしまう。

しかし、「風」「ピンボール」の2作と「羊」は、フォーマットがドラクエとFFくらい違う。むしろストリートファイター2とドラクエくらい違う。

形式だけをざっくりまとめると、「風」「ピンボール」、封印作、「世界の終わり」は断章、スト2の特徴がある。そして「羊」「ハードボイルド」は、一般的なフィクションの、ドラクエ的な時間の流れがある。
つまり「スト2」「スト2(ターボ)」「もう一度スト2(ダッシュ)と見せかけてやっぱりドラクエ(ただしキャラは同じ)」「スーパースト2とドラクエ3の統合」という形になる。
それだけでも、村上春樹がどれだけ「方法」「形式」に自覚的だったか、そしてそこでの失敗をどれだけ糧にしてきたがわかる。

以降、村上春樹は基本的にドラクエで、多分新作もドラクエになると思う。
わざわざスト2時代のタイトルを引っ張ってきたわけで、それが野心なのか言い訳なのかはわからないし、あるいはその両方かもしれないが、尋常ではないくらい、尋常ではないんだぞ、という迫力がある。
だって、作者的には書き直しでも、別に、違うタイトルにすればいいからね。


最後に、芥川賞のこと。
もともとこの封印作は、村上春樹の『1973年のピンボール』が芥川賞を受賞後第一作の小説となるはずだった。結果、ピンボールは芥川賞にも選ばれず、さらに、この小説も本人が納得しなかった。
もし、ピンボールが芥川賞を受賞していたら、「受賞作として書きましたけど、やっぱり納得できていないんで、新作の単行本は無理です」とは流石に言えなかったと思う。いや、村上春樹ならそれでも出さなかったのでは、と感じなくもないが、それはベストセラー作家となってからのパブリックイメージで、『Haruki Murakamiを読んでいるときに我々が読んでいる者たち』などを読むと、これはアメリカ進出の裏側ではあるが、いかに自分の文学を売るか、にとても自覚的な村上春樹の姿が見えたりする。
そしてこの封印作が単行本になっていれば、どこかの時点で、あるいはその時点で、今の村上春樹作品群は成立していなかった。

芥川賞を取っていたかどうか、一読者としては文壇的な評価なんて関係ないが、しかし、単行本化されていては、どうしても、ある程度封印作の文体で行かざるを得なかっただろうと思う。

村上春樹は、日本の文壇から離れた作家と言われる。
80年代、90年代は批評家はほとんど嫌っていた。その残滓はいまだにあるようだ。しかし、これも、ノルウェイの森の成功以降に築かれたスタイルであり、「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」くらいまでは、つまりこの封印作を書いていたころは文壇との付き合いもあったようだし、またそうせざるを得なかった。そもそもこの封印作自体が、芥川賞記念という、文藝誌との付き合いで書かれたものだ。
そして、それは二つの意味で失敗した。
その日本の文壇との最初の亀裂、もしくは最初からあった亀裂が露見したものが、この封印作である。
つまり、そのタイトルで新たに小説を出すということは、村上春樹による文壇との、ポジティブに言えば和解、ネガティブに言えば復讐と言えるかもしれない。
「ほら見ろ、俺のほうが正しかったんだぞ、と。」

そして今、封印作を読んでみると、やっぱりちょっとおもしろくない。諸々の先入観もあるし、作者本人が納得してません、と宣言しているものを引っ張り出して面白くないというのは、お門違いというより見当はずれだが。

1回目のリライト、つまり「世界の終わり」では「彼女」とされている女性が封印作では「君」となっていて、その君がよく見えてこない、立ち上がってこない、というのはまずあると思う。そもそも君という代名詞では、それは「僕の内面にあるその人」なので、その人自身をくっきりと描写できない。そのできなさを描くことはできる。

「ことば」にかんするやや抽象的な文章も、生硬で難解な表現が続いており、なんというか非常に村上春樹らしさ、簡易な言葉や表現を重ねながら印象的な比喩を入れるスタイルがない。

また、結論も大きく異なっている。封印作では、「僕」は壁の街から影と共に脱出して、現実に戻ってくる。

僕はかつてあの壁に囲まれた街を選び、そして結局はそれを捨てた。それが正しかったのかどうか、いまだに僕はわからない。

街と、その不確かな壁、文学界 1980年9月号 p99

「世界の終わり」では、影と別れて、街にとどまる。

「我々二人が一緒に古い世界に戻ることが物事の筋だということもよくわかる。それが僕にとって本当の現実だし、そこから逃げることが間違った選択だということもよくわかっている。しかし僕にはここを去るわけにはいかないんだ。」

世界の終わりとハードボイルドワンダーランド p715


しかし、これは結論の見せかけの違いのように感じた。
封印作では、確かに「捨てた」と書いてある。確かに移動はしたのだろうと思う。しかし、「僕」がどこかから明確に脱出した、何かを捨てた、という印象をどうしても受けられれない。
「脱出した」と書いていても、「本当に脱出できたか」を書けているかどうかは、フィクションの成立としては実はあまり関係ないと思う。
新作でも、おそらく何らかの脱出がテーマになるだろう。その書かれ方には注目したい。


封印作が、早稲田で起きた新左翼のリンチ事件をモチーフにしているらしいという話を聞いて、その資料も読んでみたけど、これはよくわからない。




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