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ルパン三世 モンキー・パンチの作画の魅力 Ⅰ

毒々しく禍々しいデフォルメが多いので、「ルパン三世」の漫画はどうも好きになれないのだけども、背景画や静物画には時折目を見張る描写があって、人物画よりも風景画の方に作者の卓越したセンスや才能を感じる。

こなれた後の作品よりも、初期の旧作の方に絵画的な美とインパクトがあって、粗削りながらも、絵的には旧作の方にハッとさせられるものが多い。

全部読んだわけではないけれど、いくつかこれはと思った物をピックアップしてみる。


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第21話「クールタッチ」

モノクロのコントラストがキツすぎる初期の漫画原作。黒をより黒く見せるためだろうか。古い映画のようなダンディズム。

このコントラストの強さのせいで、「暗い」場所にスポットライトのような「強い光」があたる場所=酒場というのが一コマでわかる。


強いコントラストで夜の光と影を表現するのは、2ndのOPでも使われている。


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第22話「ドンデン返し」

映画を意識したカット割りと、定まらないアングル。最後のカットは目の位置にくるぶしがあるという、実写ではありえない(やらない)面倒なアングルで、漫画ならではの誇張された映画的表現。

オーソン・ウェルズの「市民ケーン」の「床下アングル」の手法を思い出す。


「ルパン三世」は漫画にしろアニメにしろ、映画の影響がとても強い。映画ほどわかりやすくないが、音楽の影響も無視出来ない。当時の最先端の文化を吸収していた。


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第15話「白い追跡」

1、2コマでディティールのある情景描写、3コマ目の心理描写で三段落ちのパターン。

背景描写は物語の舞台説明であり、心理描写は登場人物たちの状況説明でもある。

三段目のオチで、モノクロのコントラストもアングルも極端になる。細部は消え、映画的な描写から一気に漫画の表現へ入り込む。

一つ前の画像(第22話)も同じ構成なのに気づくだろう。

具象から抽象へ。外部から内面(心理=サイコ)へ。



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第24話「トブな悪党」

スクリーントーンの技術が発達していない時代だからこそ、手描きの情景描写が心理描写や心象風景にもなっていて、暗黒街の世界を強い黒で表現している。

西欧のモノクロ映画と印象派が合わさったような原作漫画の旧「ルパン三世」。印象派が元々浮世絵由来なのを考えると、「印象派のよう」というのもおかしな表現なのだが。

デフォルメや影の使い方がロートレックっぽいなと思ったり。点描画のような表現も見られる。


作者の技術が上がった「新ルパン三世」よりも、ヨーロッパ風のクラシカルな雰囲気と時代劇のような暗さがあり、物語もドラマチックなものが多い。

アングルやパースが安定せず、ベタ塗りが多いためかなり読みにくいけども、後の作品よりも強い印象を与え、絵的な面白さは上回っている。

アメコミ、映画、印象派、墨絵をミックスしたような作画で、それを漫画でやるというのは独創的かもしれない?

和洋折衷はキャラクターやプロットだけじゃなく、作画にも見られる。前衛的、アート的な刺激と面白さがあり、連載早々若者たちが熱狂し、大人気になったのもよくわかる。そして、いまだにマニアックなファンを獲得しているのも。


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第19話「なさけご無用」

床の間の掛け軸のような形のコマと、モチーフの風景画。それを墨絵のようでもあり、アメコミのようでもあるモノクロの強いコントラストで表現している。

作者の和洋折衷の精神、サンプリングとパロディの精神は、作画にも活かされている。

というより、西洋文化がまだ輸入文化だった時代、真似してみてもどうしても「和」が出て来てしまうのだろう。


モノクロの強いコントラストをクライム・ムービー独特の不穏な空気として表現したのが作者の卓越したセンス。「第三の男」のような映画のフィルムノワールの影響も強く感じられ、オーソン・ウェルズの作品が大好きだったろうなと思う。

ヒッチコックとかも好きそう。実験的なカメラワークは、アクションやサスペンス物の映画に多く、同じ趣向を漫画のコマ割りやカットで試していたのかもしれない。

当時の漫画、私が知る限り、手塚治虫や藤子不二雄作品、少年漫画や少女漫画の名作など、いくつかの古い名作漫画の画一的で説明的なコマ割りを考えたら、「ルパン三世」の漫画表現の斬新さや実験精神、映画趣向の顕著さが想像付くのではないか。


風景やシーン展開で、登場人物たちの不穏な空気やサイコな心理を表現するのは、アニメ映画の「複製人間」にも随所に現れている。

「ルパン三世」の背景画やコマ割りが登場人物たちの殺伐とした心象風景でもあるように、「複製人間」もカット割りやカメラワークなどで、得体の知れない敵に追われる恐怖やアイデンティティ喪失の危機を表現していた。

「複製人間」と漫画の旧「ルパン三世」にはほとんど繋がりも共通点もないかもしれないが、背景美術やシーン展開を登場人物の心理描写に置き換える手法は共通したものがある。


「複製人間」は、原作漫画の「ルパン三世」にあったサイコな部分を、物語として、また映像としてうまく表現したのかもしれない。全く作風や作画に関連がないように見えて、原作に忠実な部分があるのが面白い。


映像的な挑戦は、「カリオストロの城」よりも先に実験性に富んだ表現を試みていて、今では「カリオストロの城」はアニメーションの未来を切り開いた王道になっているけれども、そこに至る前にも、当時のクリエイターによって様々な映像表現の試みがなされていたことも忘れてはいけないと思う。


どちらかというと、アニメーションの王道表現がスタンダードになってしまった昨今、CGトレースでいくらでもリアルな背景美術が可能な時代、欠けているのは「複製人間」のような実験性、アート性ではないかと思われる。

なぜなら、「カリオストロの城」のような王道アニメーションは、もはや3Dアニメでも可能になってしまったからだ。




「峰不二子という女」が原作漫画の「ルパン三世」に一番近い雰囲気と言われているのも、あの独特なアニメの映像表現が、原作漫画のような実験性や刺激に富んでいたからだろう。

この作品は、第16回文化庁メディア芸術祭アニメーション部門新人賞を受賞し、世間的にも高く評価されている。ルパン三世の持つコンテンツの底力、温故知新の可能性を見せつけた作品かもしれない。


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「峰不二子という女」の第二話にベルナルド・ベルトルッチ監督の映画「暗殺の森」そっくりなシーンが出て来る(笑)。


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同じく第二話。60年代に流行ったミニマルで有機的な流線形のフォルム(オーガニック・デザイン)が現れるアトム的な「近未来」な風景。


内容的にはかなり偏った所がある作品で、私もリアルタイムでは初回を観て止めてしまった。けれど今改めて観てみると、その挑戦的な映像表現には舌を巻くばかり。

不二子という女性のジェンダー面がクローズアップされた作品なので、実は密かに女性ファンが多い(このブログでも「峰不二子という女と嘘」の記事が一番アクセス数が多い)。


あのレトロな作風を50年代を思わせる懐古趣味的な時代表現として、また女のドロドロとした肉体や内面の赤裸々な表現として、またクライム独特の重ぐるしい世界の表現として、いずれにも当てはまりどれとも区別が付かない混沌とした世界観をアニメで実現したのは、流石だったと思う。


「峰不二子という女」こそ、原作漫画や「複製人間」がトライして来た「風景や背景と人物の内面の一致」の一種の到達点であったかもしれない。


ちなみに、「峰不二子という女」の美術には、アフリカ系アメリカ人のアニメーターのスタジオが参加していて、スモーキーで重さのある色彩のトーンや太い線に、レトロだけでなく土着な匂いも感じている。

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