DROOLING #THINKTOBER

 
「焼肉定食」。
 それがずっと頭の中にあった。

 掃除ロッカーに入、入、入れない。開かない。開いた。入って閉じ、閉じない。でも他に選択肢が思いつかない。そもそもロッカーって中から閉じることを前提とした構造じゃない。内側から抑えることしかできない。ものすごい埃臭さと黴っぽさの中でモップとほうきと押しくらまんじゅうしながら扉が開いてしまわないように中から押さえる。
「焼肉定食」。
 四文字が頭の中で切れかけた蛍光灯みたいな光を発しながらちらちらする。

「ナルーーーーッ!!!! ナル!!!!! ナ゛ル゛!!! ナ゛ルーーッ!!! ナ゛ル゛!!!!!」

 廊下から絶叫が聞こえる。
 野沢はずっと叫んでいる。俺を呼んでいる。

「ナ゛ル!!!! ナ゛」

 咀嚼音……としか呼べない音が聞こえる。
 ずっとその二つは耳に届いていた。野沢の声は途絶えた。
 硬いものを圧し折る、柔らかいものを噛み潰す、そういう音だけが残った。

「焼肉定食」。
 ゴシック体の白い文字が、ロッカーの中の俺の頭の中の暗闇に浮かんでいる。俺はそれを見つめている。

 あれ――あれが何なのかよくわからない。
 あれは涎を垂らしていた。ものすごい猫背をした人間のような形状だったが、縮尺は完全におかしかった。ペイントソフトで拡大した画像みたいにぼんやりしていて大きかった。そして首がなかった。胴のような部分が不自然に長く、口だけがくっついていた。唇のない口、ウツボのような。眼すらあるようには見えなかった。というか直視する余裕はなかった。でも服を着ていたのは覚えている。オータムカラーのチェックのネルシャツ。黒いスラックス。どちらも不自然に歪んで、あれの形状に合わせて引き伸ばされていた。

 俺と野沢は、忘れ物を取りにきたのだった。
 野沢は野球部で合宿。俺は学校の裏に住んでるだけだけど、野沢も俺も野沢の先輩には逆らえない。ちんぴらという風体でもない、どこかこう、牙の生えた肉食獣のような、最初から食物連鎖の上のほうに生まれてきたような人なのだ。髪は色を抜いて真っ白。顧問も何も言えない。あの人が合宿で酒盛りしてても、乗っかる奴はいても注意する奴はいない。俺はコンビニで酒が買える。老けてるから。だから野沢に頼まれて俺が呼ばれる。そして野沢の忘れてきた(もしくは、避難させていた)サイフを教室のロッカーまで取りにきた。
 あれは廊下の一番端にいた。合宿の夜に先生がいるのはおかしくなかったし、見つかったらヤバいのですぐ隠れた。でも野沢が言ったんだ、「あれ、なんかおかしくないか……」

 そして野沢は廊下にバッと飛び出て、俺はそれを階段の角から見守った。あれは確かに、おかしい、おかしかった。長い。廊下の天井までひっつくぐらい伸びてゆらゆらしていた。野沢は立ち止まった。野沢の坊主頭が、廊下にピンを突き立てたみたいに見えた。直立不動だった。硬直していた。あれが野沢のほうを見ていたせいだ。「見ていた」のだ。目なんてどこにもないのに、視線が確かにあった。

 俺は逃げた。教室に逃げ込んで、隠れる場所がなかった。手が震えて、野沢のロッカーを開けた。野沢の汗くせえロッカーにはタオルとアイスのゴミとサイフが入ったコンビニのビニール袋があった。それを取り出しているあいだじゅう、ずっと「焼肉定食」という4文字が頭の中でぴかぴか輝いていた。脳内の暗黒に燦然と白抜きの「焼肉定食」。ゴシック体の太文字、横書き一列。それを見つめながら野沢のサイフを回収して、そして野沢。掃除ロッカー。ビニール袋のカサカサいう音がうるさい。この世界から音が消えてほしい。もう野沢の叫び声は聞こえない。何の音もしない。出られない。埃の匂いしかしない。「焼肉定食」。

 ロッカーの隙間から窓が見える。教室の窓から月が見える。半月だった。人間の目のように見えた。そんなはずはない。目なんかない。でも視線があるように見えた。

 がらがらがらがら

 教室のドアが開いた。
 ていねいに手で開けた。
 見えるわけないのに見えた。

 野沢の声はもうしない。
 肺が痛い。
 胸の真ん中が。
 先輩に殴られたところだ。

「焼肉定食」。
 違う。これは多分……
「弱肉強食」だ。

 俺はロッカーを出た。
 静寂の殻を突き破り、モップとホウキとバケツとチリトリをがらがら言わせながら外へ出る。

 あれは……
 教壇に立っていた。

 こっちを見ている。
 教師が生徒を見るような視線だ。
 ネルシャツが濡れている。
 真っ黒な涎でビショビショになっている。

 ぬるりとあれは歩き出し、一歩で俺の前まで来た。
 唇のない口。肩の上に伸びる首肉。ネルシャツのゆがんだ襟。原型を失い、なめくじの尾のようになったスラックス。靴もある。歩けば靴音もする。でも頭がない。首の先に口がある。口が開き、涎がぬらぬらと月明かりに照らされている。奥には何もない。「焼肉定食」が「■肉■食」になり、やがて弱と強をはさんで答えに辿り着いた瞬間から、ぬうーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?