目下、世に月よ満ち足れ


 ああ……。
 月が。欠けていく。


 私の身体は木端微塵に砕け、水面に散らばった。
 幾片もの波紋が激しく湖面を叩き、目下空の頂に聳える月の姿を揺らした。割れた皮膚から火花が散りぽんぽんと水の上を飛び跳ねていく。

 終わった……
 頭を横たえると、無残に火を上げる私の身体が水鏡を煌々と照らしている。視界ばかりは白昼のような明るさだ。あの果てに手を伸ばすべく蓄えた全ての力、全ての機能、負った責任、目標、衝動、志、ある程度のどす黒い感情、私をあの月夜に向けて射出し、ただ到達するためにのみ注いだ全ての燃料が、硝子のように砕け散った今、無残に、無益に、盛大に燃え上がり、虚空に黒煙を巻き上げて消えていく。意味もなく。

 ただ、私たちの目的はあれに手を触れる、そしてそれが可能であったならば再び此処へ帰る。それだけであった。
 叶わぬ夢ではなかった。今、この身体のそこかしこで火を上げている破片の全てが、巧妙に繋ぎ合わされ、一本の筋道立った力としてこの手にあった。それは私を推進し、私を導き、私に手を伸べさせるための全てだった。軋む身体を制御し、爆発しそうな心を抑え、潰れそうな頭を上げ、しかと瞳を開く。そうして見据えた月が、遥か眼下の月が、欠けていく。
 間に合わない。
 足を踏み外したとき、既に私は予感していた。砕け散る私を。塵と化す身体を。そして叶わなかった月、翳り行く月の姿を。
 今は、余りにも遠い。

 終わった……ただ一瞬のことだった。あんなところで足を取られるはずがなかった。何度思い描いた一歩だったか、何度繰り返した一歩だったかわからない。それをまさか、あんなところで、直前、あんな風に、踏み外してしまうなんて。
 そんなはずはない。そんなはずじゃなかったんだ。
 どうして。どうして駄目だったんだ。どうすればもう一歩、ただ一歩を繋ぐことができたのか。あれほどまでに繰り返してきた事象でさえ覆されるというのならば、何を信じれば良かったのだ。私は私自身を信じることで失敗したのか、もしくは私の背中を押す全ての人々を。では私の存在は失敗だったということか。そもから手を伸ばす資格など持たなかったとでも言うのか。
 そうなのかもしれない。空論であったのかもしれない。私は、私自身の機能のためにそれを信じ込んでいただけで、本当はそれが不可能であることを知っていたのかもしれない。だからこれは当然の結果なのかもしれない。私は気が付いていたのかもしれない。どこかで何かが必ず綻びることに。目的を果たすことが「出来ない」ということに。
 ならば、無意味だったのだろう。私の跳躍は。私の存在は。
 湖面は燃え尽きようとしている。私の身体は沈んでいく。目下、果てしなく空は焼け残り、足元へ消えようとしている。

 熱い。……身体が熱い。
 駄目だ。私は既に失敗し、機能を失っている。どう頑張っても立ち上がれるはずがない。もはや泥となるべき定めの無機物だ。

 だが、……どうすればいい。
 持て余された私を、どうすればいい。志を抱いて生まれた。夢と現実の摩擦が生んだ強い熱の上に産声を上げ、そして姿を得た。ただ一つの月のために。あの天下の冠を戴くために。ただそれだけのために。
 それがなぜ、今、甘んじて天へ沈もうとしているのだ。
 なぜだ。そうあるためだとして、それを納得できるか。納得するよりほかになかろう。今まさに私は失われようとしているというのだ。

 だが、……だが、それが何だ?
 それが何だというのだ。私は持て余されている。私自身の、果たされない思いが、月に焦がれた精神が、炎の痕からなおも燃え上がり、火粉を吹く目下の世界全てを焼き尽くさんほど熱く! ただ熱く、ある、あるのだ!
 何故だ!? 何故私が沈まねばならないのだ。何故諦めなければならない! 誰が時間切れを決めた? 誰が蓋をしたのだ、この身体に!!
 重い……だがそれが何だ? 身体が何だ。頭が何だ。この熱が全てだ。この熱こそが私、私自身に他ならない!
 誰にも邪魔などさせない。それが例え万物の法則であろうとも。
 御託はいらない。私は目を探している。開けるべき瞳を、持ち上げるべき瞼を。そして見据えるべき光を。
 私は、私自身を発見した。
 そして目を覚ました。


 ……ゆらりと立ち上がる。
 目下、これは世界だ。今まさに崩壊した私は、世界に包まれている。
 そして月は、その上にある。欠け行く月。いずれ届かなくなる月。私と、私を生んだ全ての情熱が待ち望んだ月。
 私はステップを踏む。そして跳び上がる。間違えようもない手順。見えざる階段を踏み、私は手を伸ばす。徐々に薄く引き伸ばされて行く月へ。
 ああ……瞬間、月の海の鏡越しに。
 足元に残した世界を見た。


 目下、世にどうか、月よ満ち足れ。
 爛れて尚も手を伸ばせ。
 それこそが、熱そのものなのだ。 



スクラップマーケット」掲載作品です。

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