笑うバロック(644) ガンバ王子スーの冒険

1972年3月13日から15日にかけて作曲家の生誕 300 周年を記念してボストンで録音された、アントワーヌ・フォルクレによるソロ・ヴィオラ・ダ・ガンバと通奏低音のための 5 つの組曲の最初の完全な録音。

1972年フォルクレ

豪快といえば聞こえはよいのですが、少し大雑把な演奏に聴こえます。とにかく早い時期、2枚組レコードが出ていたことがわかりました。

Harpsichord: John Nargesian, Boston 1968. 2 manuals, 2x8, 1x4, peau de buffle, buff stop.
Seven-string gambas; Solo gamba, Günther Hellweg, Lübeck, 1971; continuo gamba, attrib. Claude Pierray (18th c. French)

楽譜は下に掲げたものの様子。演奏曲のイメージは後続と極端に違う印象はありません。ピッチは415かしら、なんとなく高めに聴こえます。

スー氏は、1967年のレコードにフォルクレの第4組曲を録音しています。
アメリカのレコード文化は面白いもの。メトロポリタンとかスミソニアンのコレクションみたいな、似たようなものをたくさん集めて並べておく、脈絡はあまり問いません。もっともそこがいいんですが。

1967年フランスバロック集

親族の方がyoutubeに動画を提供してくださっています。
5弦チェロでバッハを弾く姿が拝見できます。もったいぶらずバリバリと弾いてしまう姿と音を鑑賞していると、シュタルケルみたい。

1987年3月


1981年出版

John Hsu, Prince of the Viola da Gamba
ガンバ王子ジョン・スー
BY DAVID YEARSLEY  デビッド・イヤスリー筆
(カウンターパンチ誌)2018年3月30日


1776 年から 1789 年にかけて発行されたチャールズ・バーニーの膨大な 4 巻からなる『音楽の一般史』の最後のページには、「前世紀にあった」楽器のエレジーが登場します。 それは「ヨーロッパ中の貴族または紳士の家の必需品」です。 その楽器の偉大な名人、バーニーの友人カール・フリードリッヒ・アーベルへのエレジーでもあります。アーベルは、バーニーが嫌っていた大陸の独裁政権を逃れ、ロンドンに定住して繁栄した多くのドイツ人音楽移民の 1 人です。 バーニーは、アーベルの死から2日後1787年6月22日にロンドンのモーニングポストに掲載された死亡記事を引用しています。バーニーは、アーベルへの賛辞の中で「ネックの後ろ」に追加の低弦を備えた関連楽器について言及しています。バーニーは「砂漠や演奏家が1人しかいない家で」の「見事な工夫」と。彼が言及している楽器はヴィオラ・ダ・ ガンバとバリトンです (ゲインズバラが描いたアーベルの肖像画の両方に見られ、2番目の肖像画には彼の犬が作曲テーブルの下でくつろいでいる) 。先週の土曜日(2018年3月24日)、ノースカロライナ州チャペルヒルで 86 歳で亡くなったジョン・スーは、バーニーが間違っていたことを証明した音楽家でした。スーは、19世紀後半から一時的に復活していたヴィオラ・ダ・ガンバの演奏を、そして歴史のかなたに忘れられていた、一度聞いたら忘れられないバリトンを復活させたからです。1931年に中国の汕頭(Shantou, China、広東省の町)で生まれたスーは、ヒトラーから逃れて上海にたどり着いたウィーンの亡命者にチェロを習いました。おかげで彼は中央ヨーロッパのロマン主義の表現力豊かな伝統を受け継ぎました。中国革命の年1949年に米国に移住したスーは、大きく複雑に織られた織物(中国三大刺繍の一つ汕頭スワトウ刺繍)を持ってきました。それはスコットランド宣教師と織工が伝えた刺繍と地元汕頭の伝統装飾を融合させた特産品でした。ワシントン州タコマに上陸したスーはショールを売り、そのお金を使ってウィスコンシン州キャロル カレッジに入学し、その後ニューイングランド音楽院に転校、1971年に名誉博士号を授与されました。数年後、彼はタコマに戻り、ショールを探しましたが取りもどすことはできませんでした。スーは 1955年にニューヨーク州イサカのコーネル大学教員になり、50年在職しました。コーネル大学では、プライベートレッスン、室内楽指導、音楽史の理論と指導、オーケストラ指揮に携わりました。チェロ奏者スーは、1960年代初頭からヴィオラ・ダ・ガンバのパイオニアへ変貌しました。楽器をマスターした後、彼は世界中のコンサート会場で、また録音でこの楽器を演奏しました。彼はフランスの偉大な世紀のヴィオール音楽の演奏の専門家、その研究の第一人者となりました。長年労力をかけて、ルイ14 世のガンビスト、マラン・マレの器楽作品の完全版を準備しました。その貢献によりスーは2000年にフランス政府から芸術文化勲章のシュヴァリエを授与されました。1974 年の録音のマレの「Pieces de viole」(第2巻1701年)は、今でも古典です。

1974年マレ録音

スーは、ガンビストとしての地位を確立する一方で、ハイドンの音楽にも専念しました。忘れられたガンバのいとこであるバリトンのための音楽を演奏するようになりました。 ハイドンは多作な作曲家であり、彼の驚異的な生産性により、この楽器のために200近くの作品を生み出しました。 スーは、この歴史的好奇心を生きた音楽的存在にした最初の現代人でした。
チェロより少し大きいバリトンは、ハープとヴィオラ・ダ・ガンバを組み合わせた楽器で、6つまたは7 つの弦とフレットを備えた弦楽器です。 バーニーが指摘したように、ハープ様の弦はネックの後ろの開口部からアクセスできます。これはチェロの弦よりも太くて幅が広いです。 この穴から左手の親指で弦をはじくことができます。 また、弓で弾かれた弦に共鳴し、バリトン独特の豊かさを与え、特に最後の和音を鳴らします。 左手の親指は、他の 4 本の指がフレットを押さえるのに忙しくしている間に、ハープの弦を素早く叩かなければなりません。 演奏者は記憶を信頼しなければならず、心の目が親指を適切なタイミングで正しい弦に向けます。
ハイドンの存命中はすでに人気が急落していましたが、バーニーも示唆しているように、この複合型の楽器は、大規模なコンサートホールの後列に到達するパワーが重視され、親密さが犠牲にされたため、壊滅的に無視されました。
(中略)

1986年ハイドン

勤勉、好奇心、学問への献身、そして真の才能によって、中国出身のスー少年は真のシュヴァリエ、音楽の偉大な貴族の 1 人になりました。 ハイドンのバリトン三重奏曲の時代を超越した録音ほど、この意味が説得力を持って聴こえる場所はありません。聖金曜日の朝にこれを書いている私は、20年前の1998年4月に満員のコーネル大学ベイリー ホールでバッハのヨハネ受難曲のヴィオラ・ダ・ガンバのソリストとしてスーの最後の公演を鮮明に思い出します。スーは、アリア「Es ist vollbracht (それは成し遂げられた) 」のオブリガートを演奏しました。1400人の聴衆は、ステージ上でスーを取り囲む学生コーラスのように夢中になりました。隣で彼のガンバが話しているのを聞いているかのように、最も遠いバルコニーからも引き込まれました。スーは、彼が演奏した古楽器を、かび臭い骨董品のように扱ったことは一度もありませんでした。現代の若者のコミュニケーションツールに取って代わることさえできる生きた器として扱いました。ヨハネ受難曲のソロは、パフォーマーとしてのスーの模範的キャリアの集大成にふさわしいものでした。 彼の音楽人生は達成されましたが、継承されています。 彼の録音や出版物、多くの学生、同僚、友人、信奉者を通じて。


わたしの書いたものはおふざけに近い、まあメモです。
きちんとした情報は下記に。


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