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幕末・明治・大正・昭和の天皇・皇室の謎

こんにちは。
近現代の歴史について解説している女学生VTuberの春日陽です。
あなたは、幕末から昭和時代にかけての天皇や皇室にまつわる謎をご存じですか?

紀元前600年頃から現代に至るまで、2600年以上もの歴史を持つ天皇家。
神武天皇から今上天皇まで126代もの歴史があり、世界で最も長く存在する王朝としても知られています。
しかし、いつの時代も国を治める立場にあった天皇家にはいくつもの謎や噂が存在するのです。
一般人がうかがい知ることのできない皇室の世界で、一体何が起こっていたのでしょうか。

高位御大礼之図

ということで今回は、幕末・明治・大正・昭和時代の天皇や皇室の謎について解説していきます。


孝明天皇の死因は暗殺だった?

まず最初に紹介するのは、孝明天皇の謎についてのお話です。
孝明天皇は第121代天皇で、幕末の時期に天皇に即位した人物です。
第120代仁孝天皇の第4皇子で、1847年に16歳で即位しました。

孝明天皇

この時期は朝廷と幕府の関係が良くなかった時期で、尊王攘夷運動が盛んに行われていたと言われています。
尊王攘夷運動とは、幕府の政治体制を批判し天皇の権威を重視する倒幕・尊王思想に基づく運動です。
外国勢力を排除し天皇を尊ぶということです。

そんな時代に即位した孝明天皇は、外国嫌いで攘夷の考えが強い人だったと言われています。
そんな中、1858年に幕府が日米修好通商条約を締結しました。
この条約の締結は天皇の勅許を得ずに幕府が勝手に条約を結んだため、孝明天皇は激怒したといいます。
その後さらに尊王攘夷運動が高まりを見せ、朝廷と幕府は関係が悪化することになってしまうのです。

日米修好通商条約で開港した新潟港

このような動乱の時代を生きた孝明天皇は、1866年12月に37歳で崩御しました。
死因は天然痘とされていますが、あまりに突然の死だったといいます。
そして実は孝明天皇の死因は天然痘ではなく、毒殺だったのではないかという話も存在するのです。
一体なぜそのような話が出てくるのでしょうか?

その理由は、孝明天皇は一時期病状が回復しかけていたにも関わらず、容体が急変して亡くなったからです。
最初は高熱や発疹といった天然痘の症状が見られ、その後順調に軽症と言えるまでの状態に回復していたのだそうです。
しかし発症から数日後、急激に下痢や嘔吐といった症状に見舞われて容体が悪化し、翌日に崩御しました。
側近が記した「中山忠能日記」には、最期の日の様子についてこう記されています。

「二十五日後は御九穴より御脱血」

中山忠能日記

つまり、孝明天皇は体の穴という穴から出血していたということです。
順調に回復していたにも関わらず、容体の急変によって壮絶な最期だったことが分かりますね。
そのため、容体が急変したのは何者かに毒を盛られていたからではないかと言われているのです。
また、この書物においては朝廷の女官が書いた手紙も収録されており、そこには「孝明天皇は毒を盛られた」といった趣旨の記述が見られるといいます。
では、仮に孝明天皇が暗殺されたと考えた場合、その犯人と動機は一体何なのでしょうか?

その犯人として最も有力視されているのが、岩倉具視です。
岩倉具視といえば、新政府の樹立に貢献したことで有名な人物ですよね。
なぜ孝明天皇の侍従であった彼が孝明天皇暗殺の犯人と言われているのでしょうか。
岩倉具視は公家として失脚しながらも「王政復古」を望んでいた人物です。
つまり幕府と協力しながら攘夷を目指していた孝明天皇が邪魔だったのではないか?と言われています。

実際に孝明天皇が亡くなった後に力を持ったのが薩摩藩と岩倉具視ら天皇の側近たちであり、倒幕へ歴史が動くことになるのです。
つまり、天皇が亡くなってからあからさまに事態が動いたために、天皇の毒殺が疑われているという側面もあるんですね。

岩倉具視

また、孝明天皇は普段御所の御簾の中で生活しており、天然痘に感染することがあまり考えられないことも毒殺説の後押しとなっているようです。

しかし孝明天皇の死因として現在は天然痘が有力とされているため、孝明天皇暗殺説は飽くまで噂と言えるでしょう。

明治天皇は替え玉だった?

次に紹介するのは、明治天皇にまつわる謎です。

明治天皇は、孝明天皇の崩御によって14歳で即位した第122代の天皇です。
軍人勅諭や大日本帝国憲法などの制定し、陸海軍の大元帥として日清戦争や日露戦争に勝利します。
日本の国力増強や国際的地位の上昇に努めた人物として知られています。

明治天皇

しかし明治天皇にはある不可解な噂が存在するのです。
それが「明治天皇すり替え説」です。
これは明治維新の時期の陰謀論として最も有名な説で「明治天皇が即位後別人物とすり替わっている」とする説です。
一体なぜこのような話が存在するのでしょうか?

それは、皇位継承した時と数年後の写真の明治天皇があまりに違うからだと言われています。
当時と後の天皇を比べると、様々な違いがあったのだそうです。

  • 14歳で皇位継承した時の写真と16歳で即位した時の写真の顔つき・体つきが全く違う

  • 即位後の天皇の顔にはあばた(※ニキビ)があり、あばたを隠すために髭を生やしていた。

  • 即位前にニキビはなかった

  • 即位前は虚弱体質のため細身の体格だったが、即位後はがっちりとした恰幅の良い体格となっている

  • 即位前は右利きだったのに即位後は左利きになっている

  • 即位前は字が下手だったが、即位後は綺麗な字を書いていた

他にも複数の違いが存在すると言われていますが、もし明治天皇がすり替わっているとした場合、替え玉となったのはどんな人物でどんな目的があったのでしょうか。

明治天皇の替え玉が疑われた「フルベッキ群像写真」

明治天皇の替え玉となったのは「大室寅之祐」という青年であり、目的は南朝の復興のためだと言われています。
かつての日本には、北朝と南朝という2つの政権が存在し対立していた時代がありました。

つまりひとつの国に天皇が2人もいる状態であり、どちらかの天皇が正統な天皇の血筋ではないということです。
この時期を「南北朝時代」といいます。
この対立は北朝有利で進んでいき、最終的には南朝の天皇が北朝の天皇に攘位することで南北朝は統一されました。

つまり、天皇家は北朝の天皇の血筋だということですね。
しかしその後「南朝こそが正当な王朝である」と唱えて南朝の復興を唱える南朝復興運動が起こりました。
この時期を後南朝といいます。

そして孝明天皇が崩御した後、明治天皇を南朝の血を引くとされる人物にすり替えて南朝の復興を目指したと言われているのです。
にわかに信じがたい話ですよね。
しかし、即位後の明治天皇の決議が明治天皇すり替え説の証拠となるのではないかと言われています。

明治44年、大日本帝国議会は「南朝こそが正統な天皇である」と決議しました。
明治天皇は北朝の天皇のはずなので、これは少し違和感がありますよね。
北朝の天皇が「南朝が正統な天皇家だ」とすることは、自身が正統な血筋の天皇ではないと宣言したのと同じなのではないでしょうか。
そのため、明治天皇として即位した人物は自分が南朝の末裔であることを知っていたのでは?ということにも繋がるといいます。

しかしこの話が最初に出てきたのは明治天皇が即位していた時代からずっと後の昭和4年頃のことだと言われています。
南朝の天皇の子孫を自称する三浦芳堅が田中光顕伯爵にこの話を聞いたことで「明治天皇替え玉説」が浮上したということです。
都市伝説の域を出ませんが、このような話があるのは事実なのですね。
あなたはこの話を信じますか?

皇室存続の危機を救った柳原愛子

次に、明治天皇の側室である柳原愛子の話を紹介します。
柳原愛子は明治天皇の側室であり、大正天皇の生母として知られる人物です。
また「白蓮事件」で有名な柳原白蓮の叔母でもある方ですね。
彼女は女官として明治天皇に仕えていて、明治天皇との間に子供を授かりました。

柳原愛子

そんな彼女は、ひそかに皇族存続の危機を救った人物と言われているのです。
一体なぜでしょうか?

明治天皇の子供は死産で生まれることが多く、生きて生まれたとしても早世することが多かったからです。
そのため跡継ぎがなかなか育たず、当時の皇室は皇族の血筋が途絶えてしまう危機に瀕していました。
明治天皇と5人の側室の間に生まれた皇子女は総勢15人いたのですが、そのうち10人が脳膜炎が原因で夭逝しています。
当時は子供の死亡率が非常に高かったことに加え、亡くなった子供の多くの死因が脳膜炎だったことから夭逝は遺伝ではないかとも言われています。

そして無事に育った男子は柳原愛子が産んだ嘉仁親王、つまり後の大正天皇ただ一人だったのです。
大正天皇の他に成人を迎えた女子が4人いますが、皇室典範で「皇位は皇統に属する男系の男子がこれを継承する」とされているため、女子は天皇になることができません。
つまり柳原愛子が嘉仁親王を出産しなかったら、皇室存続が危ぶまれる事態になっていたということなんですね。


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