エッセイ「机」

 思い出せないのだ。
 確かにわたしは、高校までは、木製のそれを使ってきたはずなのに。

 いつからわたしは、机にラクガキをしなくなったんだっけ。

 小学生の頃のそれは、なんだかやけに賑やかだったような気がする。
 ラクガキなんてもんじゃない。
 消しゴムなんかでは消えない、コンパスの針やシャープペンの先などで彫られたと思われる無数の傷跡。自分ではない誰か、過去、色々な人がその席に座り、色々な人がその机を使っていた跡を、静かにそこにたたえている。授業を受けながら、押えきれない、何か、どこか、外へ向かおうとする子どもたちの思いを、きっと机が受け止めていたのだろう。

 そりゃあそうだ。あの頃はまるで、飛び出したくて飛び出したくて仕方がないゴムまりのような心と体だった。なんと言っても、たった20分の休みの間に、わたしたちは外に出て一輪車を乗り回した。校庭の端にある鉄棒から、向こう端の野球フェンスまでの間を行って戻ってくるなんてこともできたし、友達と手をとりあいその場でぐるぐる回るなんてこともした。思えば小学生の頃の休み時間は、今流れている時間とは、まったく異質なものであったような気がする。

 机にするラクガキは不思議とうまく描けることが多かった。消すのが惜しくなって、しばらく残していたこともあった。実は告白すると、「彫る」という悪事も一度やった。卒業する前に、自分の傷を、先代たちの傷に混ぜて、そっと残したのだ。自分がここにいたという証を、たぶん、刻んでおきたかったのだと思う。

 中学、高校の机が思い出せない。

 その机に傷はあったのか。わたしはラクガキをしてたのか。絵を描くことは変わらず好きだったはずなのに、たぶん、だんだんと大人になったわたしから、はみ出すほどの何かは薄れていったのだ。はみ出さないように、はみ出さないように、そういうあり方が当時大人になろうとしたわたしには必要だった。

 あの傷だらけの机が不思議と懐かしい。決して綺麗ではないのに、人の跡を感じさせる机がなぜか温かくて好きだ。


 ――― ねぇ、わたしよ。

 傷つくことが、傷つけることがそんなに怖いかい。

 確かにそれは傷つきやすい。しかし、そいつは傷さえ自分の一部にして、いつだって机という表情を崩さずに、静かに優しく、はみ出す気持ちを受け止めてくれたではないか。

 大人ぶって抑え込んでないで、気持ちのままにラクガキのひとつもしてごらんよ。

 それともあんたは、傷つかず、少しの汚れも気になるような、無機質で整ったそういう生き方がしたいのかい?

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