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新潟県中越地震の被災と自主避難の記憶

17年前の今日、我が地元を大地震が襲いました。
新潟県中越地震。
今では地元民以外は覚えてる方も少なく、この鉄板ネタも「そんなんあったっけ」と言われる始末。鉄板ネタ言うな。
俺自身、あれだけこの出来事は一生忘れないと思っていたのに、忘れ始めていることが多く、これは良くないと思い、今回更新しようと思いました。
うちの地元は、新潟県小千谷市。 えーれすとさんってシティボーイじゃないんですかという声が山程聞こえますが、実は違うんです。
立地としては震度7を記録した川口町の隣。小千谷市は震度6強でしたが、山が続いているため多分7あったんじゃないかと勝手に言ってます。


夜勤明けで時間が無く、また明日(というか今晩)も夜勤のため、
過去の自身の記事を全く読み返さず記憶だけで書くので、結構曖昧であることを予めご了承ください。

2004年10月23日。
確か、あの日も土曜で、部活があったと記憶しています。
家でマクドナルドを食べながら、どうでしょうリターンズのビデオを見てました。
突然、壁に叩きつけられ、強烈な揺れが1分ほど続きました。
当時はこれが地震だと気付くのに時間がかかりました。それほど何が起こっているのかわからなかったのです。
少し落ち着いてまた強烈な揺れが襲い、逃げるタイミングすら分かりませんでした。
少しして親父が帰ってきて、崩れるからさっさと出ろ、と叫んでました。
携帯など探す余裕も無く、何も持たずに家を飛び出しました。

少しの間、ラジオで情報収集していたと思います。
震度6強の大地震だったことをここで知りました。
小千谷市の中でも田舎の方という事もあり、個々のスペースが確保されている事もあってか、避難所へ行かずに自主避難する人が大半でした。
うちも車の中でラジオを聴きつつ、余震に怯えてました。

とにかく、外が真っ暗で、車のライトしか灯りが無いのが不気味で仕方なかったです。
地震発生時よりすでに暗かったため、周りの状況が見えないというのがこんなにも怖い事だとは思いませんでした。
漆黒の闇が、より不安を駆り立てます。
今みたいにワンセグが普及していたわけでも無く、ラジオだけが頼り。 まぁ逆に今もワンセグが普及してるのか微妙なところではありますが。
情報源が無く、あたりも真っ暗であるため、とにかく自分の置かれている状況が分からないのです。

気が滅入ってきたので、ラジオをFMに変えてくれと悲願した気がします。
桑田佳祐のやさしい夜遊びを聴いてましたが、その中でも随時地震速報が入り、あの番組ですらこうなってしまうとは、改めてとんでもないことになってるなと実感しました。

友達が原付きでわざわざうちに来ました。 確か、日付変わってたと思います。
「生きてたか!!」と再会を喜びました。
町内が異なるので、向こうの町内の様子を聴いたりした気がします。

長い長い夜は更け、やがて朝に。
俺が車内で普通に寝てたことに親は呆れてた模様。 よく寝られるな、と。

発生から10数時間。
起きて外を歩き、ようやく状況を知ることができました。
ブロック塀が崩れ、道路は陥没し、歩道のマンホールは飛び出し、線路は歪み、電柱は倒れ…。
飽きたあとのシムシティかってくらいの崩れっぷりでした。
この状況で、うちの築100年の家が崩れなかったことが本当に奇跡です。何なら今(2021年)も家族住んでますからね。
同じ町内の友達が新聞を持ってきてくれたのを覚えてます。

余震に怯えつつ、ようやく部屋から携帯を取り出すことに成功。
生きてるかといったメールがわんさか来てたので、返信してこまめに電源を切ってました。
今みたいにモバイルバッテリーを持つような時代では無く、その上いつ電気が復旧するかも分からないので、
携帯のバッテリーはかなり重要なのです。

給水車が学校に来ると聴き、親父と歩いて向かうことに。
母校の中学校のグラウンドにはテントが張られており、地面には石灰で書かれた「HELP」の文字。
テレビで見るやつー!!ってテンション上がりました。 不謹慎か。

母校の小学校まで歩き、水をもらって帰ってきたような覚えがあります。

飯は、2日目はとにかく冷蔵庫にあるものを悪くなる前に食おうという事で、バーベキューをしたり、
近所の方も同じような考えでカレーをもらったりと、一時的に豪華でした。
これは束の間の喜びであり、翌日以降、悲惨なものになっていきます。

2日目か3日目かうろ覚えですが、配給開始。
最初は1人餅1個。 これが1日分です。
徐々に菓子パンが届くようになりますが、しばらく菓子パン(ジャム&マーガリンなどのアレ)が続き、しばらく食えなくなりましたね。
避難所へ行った人は、炊き出しもあったと聴いたのでもう少しマシなもの食えていたのかもしれません。

崩れていたブロック塀などに、黄色の「KEEP OUT」と書かれたテープが張られ、テレビて見たことあるやつー!!とまたテンションが上がる。 不謹慎か。

友達と避難所となっている総合体育館へ自転車で行ったりもしました。
そこで部活の先輩と再会し、
「おうち崩れちゃった」と笑いながら語ってました。人間は強い。
確かこの総合体育館に、天皇陛下が来場されると聴き、
「 行きてぇー拝見してぇー 」
「 お前みたいなの生きてるだけで不敬だからダメだろ 」
的なやり取りしてた気がします。 KEEP OUTでテンション上がるガキは象徴にお会いすることなど許されないんDA。

当時高校生だったので、確か連絡網は無く、個々で知り合いにメールを送って学校再開の時期などを知らせてた気がします。
市内で最速の学校再開を目指すと聴き、校長死なねぇかなっつってた気がします。荒んでますな。

確か、地震から3日目か4日目に電気が復旧。
のちのガス水道ももちろん喜びましたが、とにかくこの電気の復旧が嬉しくて仕方なかったです。
大勝利。 これで勝つる。 復興したも同然。 なんでもできる。

風呂は、発生から5日目くらいに、自衛隊風呂が小学校に来るという事で入ってきました。
別に風呂嫌いではないですが決して風呂好きとは言えない俺ですら、気持ちいいー!ってなったのを覚えてます。
浴槽と、シャワーがあったかは覚えてないですが、体洗ったりするスペースが普通の銭湯のようにあり、感激しましたね。


時間がなくなって来たので、以後の出来事を箇条書きで。 時系列はだいぶ怪しいです。

学校編。
・学校再開後、最初にやらされたのは教室の掃除。
・電車組が通学できず授業が進められないから、しばらくは復習などが続く。
・強めの余震があると放課になる。 「下校中に死んだらどうすんだ」「責任取らなくていいように帰らせるんでしょ」。
・部活再開の知らせに嘆く。 「ろくに風呂も入れねぇのに何を運動する必要があるんだ」
・グラウンドが自衛隊の拠点となる。 「かっけー!」と騒ぐミーハーな被災者たち。
・そのため、学校内の私道が汚れるため自衛隊自らが掃除。 「いいですよこんなの、教師にやらせるんで…」「おめぇがやるんじゃないんだ」。
・「地震の影響で」が流行語に。 「なんでこんなに点数低いんだ」「いや地震の影響で…」

家庭編。
・前述の通り、築100年で「当時の値段でも平均の半額」のオンボロの実家。建造物に危険、注意、安全の張り紙を貼る人が「わからん」と注意の張り紙を貼って帰る。
・友達全員が俺の実家は潰れたと思い込んでいた。 「え、なんで潰れてないの?」と何人にも聞かれる。
・しばらくは飯などは車庫で済ませ、寝泊まりは近所の家の車庫でさせてもらっていた(その家の人も安全のため1階の車庫で寝泊まり)。
・余震や片付けが落ち着き実家へ戻ったあとも、少しの間は居間で家族4人で寝る。思えば家族4人一緒に寝たのはこれが最初で最後だった。今はお袋出ていったし…(突然の別ベクトルの暗い話)

日記編。
・電気が復旧して少しして、1階にデスクトップパソコンを移動させ、無理やり「生きてる」旨を当時の個人HPに更新。
・この地震が引き金となり、日記が停滞したため6年間、1292回続けた手書きの日記が自然消滅。

地震編。
・○日にもう一回大地震が来るという噂が立つことがあった。いつの時代もこの手の噂は立つ。田舎ワイドショーはテレビのワイドショー以上に役に立たないという事を覚えておこう。
・避難生活初期の頃、後ろが山であるため、近所の大人が毎晩交代で小川の様子を見張っていた。川がにごり始めたら地滑りの可能性ありということだったと思われる。
・あまりにも余震が来すぎて、体感である程度の震度がわかるようになる。
・震度3くらいでは動かなくなる。

生活編。
・しばらくは日が昇ったら起き、日が落ちたら寝るという原始的な生活を送る。
・避難生活中盤になり近所の車庫へ行くようになると、少しずつ夜は伸びるもののそれでも10時くらいには寝てたと思われる。
・山から水を引いてる家が多く、勝手にその水を使っていたので水は困らなかった。田舎の自主避難ならではかと。
・風呂は、応急処置が終わってからは実家で入る。
・便所は、近所の家を立てた建築会社の方が持ってきてくれた仮設トイレで済ませていた。
・10-11月の新潟なのでとにかく寒い。特に電気が復旧するまでは5枚とか重ね着していた。 着替えをどうしていたかは覚えていない。
・食事は、しばらくは菓子パンを食っていたのは覚えているが、それ以降の飯をどうしていたのか全く覚えていない。


完全に元の生活に戻るまでは1ヶ月以上を要していたと思います。
そして元の生活に戻ってからも、おいらも忘れちゃ困るよーとばかりの大雪。
雪国育ちの俺ですら、久しぶりにあのような大雪を経験したと記憶してます。

田舎の大地震という事もあり、かなり特殊な例だったと思います。
山の水を沸かしてのみ、轟々と火を焚き暖を取り…。
もちろん避難所へ避難した人は、テレビでよく見るような避難生活を送っていたと思いますが、
自主避難の出来事はあまり表にでないと思います。
経験しなくていいですが、経験してしまった以上はこの経験を語り継ぐ使命があると思うので、思い出し記憶の風化を少しでも食い止めるためにも、時折思い出して書いていきたいと思います。

もし、これはどうしていたのかなどありましたら、コメント欄に書いて貰えれば覚えている限りで答えていきたいと思います。

あと、モテない17歳の男子高校生がプライベート空間を奪わるとどうなるのか。
そして迎える大震災自慰行為のお話もあるのですが、ここでは伏せておきたいと思います。 一生しまっておけ。

サポート頂けると、恵まれない大人にワクチン(リポD)を買ってあげる事が出来るので、気が向いたらよろしくお願いします。