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『脳と身体のあいだ』 身体はだれのもの

5月中旬、安曇野・穂高養生園で『からだのワークショップ|脳と身体のあいだ』をひらいた。

普段わたしは、都内で個人を対象に、運動やリハビリ指導をおこなっている。18年つづけている仕事の大半は個人、つまり家庭教師のように一人ひとりの身体と向き合うことをしてきた。チームスポーツやグループでの指導も多く経験してきたが、圧倒的に一人ひとりの身体と向き合う時間の方が多い。

身体に対して1対1のかかわりをもつことは今後も変わらないと思う。ただ、数年前に自分自身が経験したことを機に「複数人が集まる場で、『身体』をテーマにした時間をつくってみたい」と強く思うようになった。

そこには1対1では起こり得ないこと、つまり森などのような集合体として人同士がかかわるとき、個々人の身体はいい方向への反応が起こるのではないか?という期待があり、開催に至った。

三日間、集まる人たちと過ごした結果は期待以上のものだった。1対1のセッションでは訪れないであろう反応が、集まる人それぞれに垣間見得たことは自分自身の手応えとして充分であった。

「つづけたい」

腹に落ちた感覚は1ヶ月経った今でも残っている。

身体には本人以外に知る由もない感覚がある。そう、主観である。言葉として外に出すと同じようなことでも一人ひとりが過ごしてきた時間やその時々の経験は違うのだから、言葉に宿る意味は変わってくる。ましてやその人自身に訪れている感覚を正確に表現する言葉が見当たらないこともあるし、言葉にしたところでその感覚を他者が理解することはほぼ不可能である。

今回は、『脳と身体のあいだ』という副題をつけた。その意図は“概念や規範などに合わせた身体”ではなく、“主観としての身体”つまり身体を動かすときに本人がどう感じているのか、などの検証を繰り返すことを目的としていた。

『3つの姿勢』という考え方を、集まった方々にお伝えした。

1. 概念としてのいい姿勢
2. 自分(脳)が思ういい姿勢
3. 身体にとっていい姿勢

詳細は省くが、2と3に差が生じやすい。2と1がごちゃ混ぜされていることもあるが、それも含めて2と3を行き来することが『脳と身体のあいだ』を副題にもたせた意味である。

集まった人たちの年齢、目的、身体の状態は多様なので、様子をみながら進んでいった。グループワークと個人セッションの時間を分けて設けたことや、余白のある時間運びにしたのも、その場に合わせたものだった。


身体はだれのもの

初日に「身体は極めて個人的なものですけど、その身体をとおして自分だけでなく他者とかかわっています」と話した。その意味を深く掘り下げるようなことはせず、その場に置くように発した言葉だったが、あとになって触れてくれる人がいた。

ひとが生きていく上で、身体の状態は生き方そのものに影響を及ぼす。日常で感じる些細な不調から、生死にかかわる問題まで。そういった大小さまざまな問題がある上に、身体の中身も外の環境も常に変わっている。むろん隣にいる人も同じである。

私が18年という歳月をかけて見てきた人たちを振り返ると「ずっと元気」ということはあり得ない。元気なように見えて内に秘めていることはあるし、本当に元気なときもある。八方塞がりな局面に立ち会うこともあり、一筋縄にはいかないな。と思うことが多い。

立ち止まることが必要なとき、流れるように進んでゆくとき、天気のように日々変わる身体とどう付き合ってゆくのがいいのか。かかわる人たちと共に試行錯誤をしながら進んでゆきたい。

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