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自分以外の視点から物事を見る

この週末に英語の本を2冊、ざっとでもいいから読もうと思い、PCにも向かわずに読んでいました。

日本語の本と違ってペーパーバックでさらに300ページ越えだと手で持つにも収まりが悪く、だんだん辛くなってきたので、何かいいアイディアないかなぁ、とググりました(何かしていてそこから逃れたい時、何かしら検索しちゃうことないですか?笑)。

そうしたら、本(やiPadなど)用のビーンバッグを発見。

本用のビーンバッグ (写真はリンク先からお借りしました)

これ以上ものを増やすのもなぁ、と思い、家にある使っていないビーンバッグクッションからビーンを抜いて(何かを買ったときにそれに入っていた)大きいフリーザーバッグに詰めて、それを使っていない大きめの巾着に入れることを思いつきました。

人が座る用のビーンバッグ(リンク先のサイトから画像を借りました)

そして、ビーンバッグを慎重に開けて、計量カップを使って慎重にビーンバッグ内のつぶつぶを袋に移し始めました。

ビーンバッグの中の粒々はこんな感じ

大人ですからね、かなり慎重にビーンを移したら、こぼすはずないよね、と思いながら入れているのに、なぜかいくつか袋の外に…。

このビーンバッグを買った時、そして中のビーンが潰れてさらに足した時に、ビーンがクッションカバーには入らずに床に落ちて拾うのに苦労したのを覚えているので、「ぎゃー」となりそうなのを抑え、冷静に一つずつ拾っては袋に入れ、をしているのになぜかまたこぼれている…。

それで気づいたのですが、フリーザーバッグに穴が開いていたのです。

「うわ、気づいてよかった。穴が開いていたらそりゃ出るよね。よかった、私がこぼしたんじゃなくて」なんて自分の手元のせいじゃないことを知って安心し、テープで穴を塞いでさらにビーンを投入。

この時に、心の中では「子供が幼いときに何か作りたいからビーンバッグを開けてビーンを移動する、と言っていたらめちゃ止めてただろうなぁ、大人の私ならよくて子供はダメって特権の濫用だな」なんてぼーっと考えていました。

すると、猫がやってきてジッパーが空いているビーンバッグに登り始めたではありませんか💦 🐈

「ちょ、ちょっと、今はやめて、ね」というも虚しく、逆に猫が登ったことで粒々が動くため、興味を持って中に入ろうとして足を突っ込み始めました。

「ぎゃー、まさかの❗️❓やーめーてー、ね」と言ってクッションの穴から手を外し、猫を急いで両手で掴んで横にポンっと置いたのですが、ビーンがこぼれたーーーー🙀

それでも、もう面倒は面倒ですが、一つずつ拾えばいつかちゃんと全部拾えるのを知っているので、もう忍耐だと思って拾っていました。

そして拾いながら、

「子供がこれをやっていて、猫がやってきたからとはいえ、これだけのビーンが散らばっていたら『あー、もう!だから言ったでしょー』ぐらいは言っていただろうなぁ(最近は言わないけど子供が幼い頃はそういう子育てをしていた)」

と思いながら

「『だから言ったでしょー』って『猫がきてこぼれるよ』って言ってないのにねぇ」

と一人ツッコミをしたり、

「それにしても、確かに面倒だけど一つずつ拾えば終わるのがわかっているのに、なんで例えば『いや、ダメ、ビーンクッション開けるとかやめて』って言いたくなり、実際にこぼれたら『あー、もう💢😭』ってなるのかなぁ」
などと考えていました(一つずつ拾う作業は単調なので単調なので頭がヒマしている😁)。

さらに、「猫🐱には怒らないのに子供👧がこぼしたら怒っていただろうなぁ」とも…。
(しかも上述のように「ほら言ったでしょ」と言いたくなる😲 ちなみに、今だったら、そういう場面で怒るのは非効率なので怒りません😁)

そうしたら、『あー、もう💢😭』には、

「こんな面倒な作業、子供はするはずがないから、結局私がやらなきゃいけない」

と思っていることや

「こんな面倒な作業、いくら子供が始めたことがきっかけとはいえ、子供にやらせるのはかわいそう(できるのかな?)。だから尻拭い的に母親である私がやることになる」

と考えたり、さらには、

「『自分でやりなさいよ』っていうとしたら、罰のつもりで言っていたな…。手伝ってあげればいいのにねぇ…そんな余裕もなかったのか、それしか知らなかっただけなのか…。ふぅ…」

と過去の自分達親子に同情したり思いを馳せたりしていましたが、

「ちょっと待てよ。なんで私がやることが前提なんだろう?
それで、やりたくないから『あー、もう!』って子供がやらないって言ってないのに先走ってフラストレーション丸出しにしているってどうなってるの? いつから私がやるもんだ、と思っていたんだろう〜?
子供にだってできるし、意外と子供は面白がって拾うかもしれないし、『自分がこぼしたんだから拾うよね』という目で見守っていたら、なんの抵抗もなく片付けていたかもしれないのに、『あー、もう!』とかって言われたら、嫌な気分になるよねー。なんだこの空回りな思考は?!」

と、もうやらないであろうやりとりを、しかもやったこともないやりとりを想像して、自分がどんな思いでいたのか、瞬時にどんなことを考えていたのか、に気づきました。

そして、拾い終わって再び袋に詰めながら、今度は、

「そもそも、視点が『あー、もう💢😭』の『母視点』しかなかったんだなぁ。大人はそういう時に叱るもの、だとしか思っていなかったしなぁ…。
今は、『子供は意外と楽しむのかも』とか違う可能性を考えられるし、今なら『あらら、こぼれちゃったねぇ』とだけ言って子供がどうするかを見ていたり、子供が手伝って、と言ったらその時の気分で手伝ったり『近づいてクッションを持つ人が増えるともっとこぼれそうだから、見ているから拾ってみて』などと見守ることを選べるかもなぁ」

なんて思いました。

I-messageで言っても、それがハナから自分がやることが前提で「私は面倒だと思っているし、私はやりたくない💢😭」だったからコミュニケーションがうまくいかなかったんだなぁ、と過去の自分のやりとりを想像のシチュエーションでやり直して(Do-over)みて、子供が幼い時にこれに気づけていたらよかったなぁ、と思いつつ、今でも気づけるようになったことをお祝いし、NVCがあり、それを知れて実践できていることに感謝したくなったので、文章として残しておこうと思いました。

ざっと書いたので、なんのこっちゃ?かも知れませんが、もし興味があったらコメントくださったら、わかりにくいところを書き直します〜。

あ、そして自家製?お手製?の本置きはないよりはマシ、なくらいで活躍して読書がはかどりました📗📘❤️



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