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わたしたちは、怒ってはいけないのか


「怒りをコントロールしなさい」とよく言われる。怒りは感情のなかでも「よくない」部類とされてきた。確かに、いつでも怒っている人は付き合いにくいし、わたしだって基本的に怒られるのはキライである。特に、理不尽に怒られた経験は、忘れられないほどの傷跡になることもある。

では、わたしたちは全く怒ってはいけないのだろうか。

怒りは、ネガティヴな感情だと捉えられている。嫉妬したり、落ち込んだり、そういう負の感情の仲間と思われがちだ。ポジティブな人は、怒らない。本当に?

いつもニコニコしていて、穏やかで、一切の文句も言わず、ありのままの状況を受け入れ、欠点よりも長所に気づける人。日々のささいな出来事によろこびを見出し、欲をあらわにせず、小さな夢を語れる人。そういう人が、なんとなく「正しい」人間像だと考えてしまう時期があった。そういう人になりたかった。それが大人なのだ、と思っていた。

でも大人になったわたしには、欲望も、不満も、期待もある。

「もっと変わってほしい」
「こんなことはおかしい」
「ちゃんと説明してほしい」

こういうことを、日々考えてしまう。あらゆる状況を受け流せるほど、心が広くない。でも本当に全てを受け入れることが、大人なのだろうか。人間の美德なのだろうか。

感情的であることと、感情を抱くことは違う。

怒鳴ったり、暴力的になったりすることは、絶対にいけない。無闇に怒りをあらわにする必要はない。それでも、感情は押し殺さなくてもいいのではないか。人は、喜怒哀楽を持つ生き物なのだから。

わたしには、感情がある。
わたしには、怒りがある。

日本での妊娠出産は女性にとって大変すぎるし、
性別や国籍を理由にした差別はあるべきではないし、
資源を無駄にする企業は多すぎるし、
現政権の不祥事への対応はあまりに不誠実だと感じる。

醜いと言われても、からかわれても、冷笑されても、わたしは怒ることを、あきらめてはいけないと自分に言い聞かせる。かっこ悪くても、おしゃれじゃなくても、必要があれば言語化して、主張しなくてはいけないと考える。

怒ってはいけない、なんて、絶対に思わない。

でも、本気で怒ることは大変だ。なぜ今の制度が変わらないのかを学ばないといけないし、どうやったら変えられるのかを組み立てないといけないし、人の意見も柔軟に聞かなくてはいけない。もう一度書くけれど、感情を持つことと、感情的であることは違う。怒りは、次の行動のためのきっかけだ。怒り方にだって、いろいろあるのだ。

怒り方を忘れてきてしまった人は、きっと多い。怒らないことは美徳であると、教育されてきたのだから。でも、よろこびと、かなしみと、怒りは、同居できる。日々を楽しみながら、おかしいと感じることに気づき、それを変えるように努力する人は美しい。

ただヘラヘラしているだけの人には、なりたくない。
怒る人を見下す人には、絶対になりたくない。

がんばって生きます。