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見せない時間が消える前に

シェアの時代だという。誰も疑わないと思う。
一応書くと、シェアリングエコノミーの話題ではない。主にSNSでの発信について考えている。

多くの人が文章を書けばFacebookやnoteにあげ、写真を撮ればinstagramに投稿する。日常のなかの小さな非日常は共有が前提で、もはやそれが行為の主体になることもある。

わたし自身も重度のSNS依存であることは理解しているので、まったくそれを否定できない。観てよかった展示があれば、写真と感想とともにツイートしたり、インスタに上げたりしている。140文字にどうおさめるか、どこを切り取って共有するかまで考えながら観ている気すらする。写真禁止の展示があると、もはや安心するレベルである。

自分がそんな状態だから、ときどき「日記をつけている」とか「フォトアルバムを作った」とかと聞くと、なんとも言えないうらやましさがある。

文章に関していえば、「日記」と「手紙」という、違う意味の単語が存在するのも、もともとは人に読ませるものと、読ませないものがはっきりしていたからでないか、と想像する。

わたし自身は職業ライターとして、お金をもらって記事やエッセイを書くことは多い。それはある種、昔ながらの共有を前提とした文章で、日記でもなければ、手紙でもない。
そもそも文章も写真も、誰かに読ませたり見せたりすることを考えるのは、
かつてはプロや、限りなくそれに近い人々だけだった。

「ツイート」や「ブログ」は、日記なのか手紙なのか、あるいは記事なのかエッセイなのか、いつも曖昧だ。インターネットの海に漂うことばには、まだ名前が与えられていないように思える。

これは反省文に近い。あるいは呪いを解くための準備かもしれない。
とはいえこの文章だって、結局は自身の考えをまとめているようで、読む人の目を気にして書いている。
共有が前提の日々になって、わたしの頭のなかのことばのあり方が大きく変わったのは間違いなくて、
日記をつづる感覚が限りなく消失しつつあるように思える。これはこわいことだ。

人に見せない時間があってもよいのだ。
そのことをもう一度、思い出したい。

※今回の写真は、10月のミラノで撮ったもの。結局、載せたくなってしまうんだ…。

がんばって生きます。