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音楽家の散歩

ミラノから東京へと戻る飛行機のなかで、MacBookを開いている。どうしてか、空の上で書き始めた文章は陸に着く前に書き終えたくなる。印刷されない文章ならばいつでも直せてしまうし、もちろん締め切りもないのだけれど、手紙に封をするように終わりをつくる。届ける相手も見定めないままに。

飛行機の轟音が苦手だから、機内ではずっとノイズキャンセリングヘッドホンをしている。今は、Weezerの古いアルバムの曲が流れている。iPhoneにダウンロードしたアルバムのリストを眺めていたけれど、なんだか特に聞きたい曲もなくて、一番上にあったアイコンを選んだ。選んだと言ってはいけない、とりあえずかけただけだ。

音楽や映画などの、時間軸のある表現物がずっと苦手だった。今も得意ではない。ほとんどの場合、すぐに立ち上がって外に出たくなってしまう。それでもときどき、本当にときどきではあるのだけれど、呼吸も忘れてしまうようなものに出会えるから、信頼できる人の評判を頼りにライブや映画館には出かけるようにしている。

そんなわたしだけれど、つい最近、音楽家と友人になった。ロンドンの現場で、偶然一緒になったのがきっかけだった。映画音楽も多く手掛けている人で、ピアニストでもある。まだ20代でわたしよりも若いけれど、とても落ち着いていて、むしろ落ち着きすぎているからか、どこかの時代からタイムスリップしてきたような雰囲気がある。もちろん未来ではない、過去である。

先日会ったときは、夏目漱石の小説に出てきそうだなと思った。まだ携帯電話もパソコンもなかった時代に、哲学書とノートを小脇に抱えて、川沿いの土手を一人で歩いていそうな。実は今も、そんな感じなのかもしれない。ロンドンの仕事の後に訪れる場所を考えていたからエディンバラを勧めたら、実際に行ってみたらしい。後日、何をしたのかを聞いたら、散歩だけして帰ってきたと言っていた。ロンドンの古着屋で洋服を漁っていたわたしとはずいぶん違う。

その彼と帰国後に約束をして、カフェで会った。とりとめのない話をしているなかで、武満徹氏の音楽の話になった。

武満氏は曲を、庭のようにつくるのだという。例えば、ある庭に足を一歩踏み入れると飛び石がある。少し進むと低木や苔が目に入り、徐々に立派な松が現れる。遠くを見ると、借景の滝が見えてくる。もっと奥に行けば池もあるかもしれないし、そこには鯉が泳いでいるかもしれない……。そんな、まるで庭園を歩く自身の視点のままに、彼は音楽を組み立てたそうだ。

これを教えてもらったとき、ただ、なんだか嬉しくなった。彼の音楽がその場ですぐに脳裏に浮かばなかったのが悔やまれるけれど、それはまぁ仕方ない。なによりも、音楽の持つ時間軸とは空間でもあるのだ、という新しい視点をもらえたことが大事だった。目の前の音楽家も、そのように音楽をつくりたいと話していた。
思わず「庭は自分で作ってもよいし、すでにある庭を歩いてもよいし、あるいはそれはもはや庭でなくてもよいのですよね」と聞いたら、もちろんと返してくれた。きっと絵画のうえだって、音楽家は歩けるのだ。目にはみえない概念のようなものでもいいのかもしれない。うらやましい仕事だと思った。その後もひたすら、表現と哲学の関係などの話をし続けた。

話が盛り上がりすぎて、コーヒーはぬるくなって、日がくれていた。気づいたときには次の予定に遅れそうだったので、あわてて店を出た。どう帰るのか聞いたら、タクシーを拾うと彼は言った。「電車もバスも苦手だ」というのがあまりに似合うから、笑ってしまった。

わたしの乗る飛行機はまだ、大陸の上を飛んでいる。窓を開けてみたら、眼下にオレンジの光の街が広がっていた。音楽家と庭の関係のようなことを、もし自分が言葉で真似ようとしたならば、どうできるのだろう。それはもしかしたら、詩と呼ばれるものになるのだろうか。いつか自分も、自由に散歩できるのだろうか。そんなことを、思い出しながら考えている。

いつの間にか機内の照明は落とされていた。東京まではまだずいぶんある。少し眠ろうかな。この文章に、見えない封をしてから。

#エッセイ

がんばって生きます。