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社会はいつ合理化≠効率化と気付くのか?


ムダだと切り捨てて、余力を失う日本社会。

 私は早期退職前まで、鉄道業界に身を置いていた。高卒で就ける企業の中でネームバリューがあるものだから、世間では「勝ち組」と思われている節もあったが、人口減少社会で輸送人員が減少傾向にあり、典型的な斜陽産業で先行きは決して明るいとは思えなかった。

 昨今、JR東日本の電柱倒壊事故や、JR九州の無人駅化に伴う不正乗車増加問題、民鉄でも社名から電鉄を外したりと、鉄道事業を中核としてこれまで繁盛してきたにも関わらず、新たな収益基盤を確率するために、これまでの本業を軽視している肌感覚がある。

 時代の変化に応じて、事業を変革していくこと自体は別に悪いことではない。かつてソニーがエレキ事業で世界を席巻していたが、現在は金融やゲームなどのコンテンツ事業が主軸となっており、業績はすこぶる好調であることからも、この舵取りは妥当な判断だと思う。

 とはいえ、かつての本業であったエレキ事業が手を抜いているかと言えば、素人目ではそこまで酷いようには思えない。

 カメラのCMOSイメージセンサ技術は、iPhoneのカメラに2011年から今に至るまで、採用され続けている程度に高品質だし、スマホ全盛期時代に縮小傾向にあるデジタルカメラ市場において、老舗であるキヤノンやニコンが苦戦しているのに対して、ソニーはシェアを拡大しており、モノづくりの会社としての執念というか意地が垣間見える。

 しかし鉄道会社の本業である鉄道事業は公共交通機関であり、社会インフラとしての側面を持ち合わせている。それにも関わらず、あらゆるムダを切り捨て、なるべくコストを掛けない方向に舵を切り、捻出したリソースを新規事業に割り当てている印象が強い。

 いわゆる合理化だが、何を「ムダ」と定義するのかがキモであり、業界の内情を知る者としては、平時にギリギリ回せる状態が「効率的」であり、それ以外の、ランニングコストが発生しているのに、直接収益に結びつかない状態は押し並べて「ムダ」と定義している事業者が多いように思う。

 鉄道には社会インフラとして、交通弱者の移動手段を確保しなければならない民主主義的な側面。特に上場企業は、営利目的で利益を最大化しなければならない資本主義的な側面。

 この混ざり合うことのない水と油のような関係の、ふたつの顔を同時に有している手前、利用者と株主に良い顔をした結果、あらゆるムダを切り捨て、従業員をこき使う構造となりつつある現状がある。

 それが駅や保守管理部門などの、列車運行の中核を担う運輸部門以外の外注化や機械化につながり、末端が疲弊して管理が杜撰になった結果、ひと昔前ならあり得ないようなトラブルの増加を招いている側面が否めない。

 そして余剰をムダと切り捨てたが故に、有事に対応するだけの余力がなく、末端の従業員がワンオペ同然となり、当然キャパオーバーで対応が儘ならず後手に回り、エンドユーザーの不信感や、長期目線での客離れにつながり、結果的に自分たちの首を絞めているような状態が現状だと考える。

働きアリの法則。

 人間はムダがあるならそれを排除すれば、より一層効率的になると思いがちだが、必ずしもそうではないことは、働きアリの法則からも窺える。

 勤勉なアリ、普通なアリ、怠惰なアリの割合が、どの集団でもざっくり2:6:2となる有名な法則である。因みに2割の勤勉なアリが、8割の食料を調達する様子から、パレートの法則の亜種とも言われている。

 アリの生態の面白いところは、怠惰なアリ2割を集団から排除すると、残った8割の中から、また新たに2:6:2の状態が形成される点である。反対に2割の怠惰なアリだけを集めても、その中から新たに2:6:2の状態が形成される。

 つまり勤勉か怠惰かは、個体の生まれ持った性格なんかではなく、集団生活で種を存続、繁栄させる上での状況に応じた役割分担に過ぎない。

 全員が勤勉だと過労死してコロニーが消滅するし、全員が怠惰でも食料不足でコロニーが消滅する。その時々の状況に応じて、勤勉係、普通係、怠惰係を分担するのが、アリの社会では理に適った戦略と捉えられる。

 人間社会はどうだろうか。特に意識高い系はパレートの法則を、2割の労力で80点取れるなら、10割の労力で100点を目指すよりも、80点を5つ取れば400点になる的な解釈をしがちである。

 しかし、アリは状況に応じて勤勉係、普通係、怠惰係を分担している=疲れて休んだら別の個体が勤勉になるだけで、ひとつの個体が勤勉な状態を5回転させている訳ではないだろうから、最高効率で連続運転した行き着く先は過労死で、アリと同じハチ目のハチでも、過労死のような現象でコロニーが壊滅することが、ハウス栽培で確認されている。

 つまりコロニー内の怠惰な2割は、有事の際に即座に対応するために、意図的に余力を残しておくことが生存戦略とも捉えられる。

 日本社会でも近年、過労死が問題視され、海外でも「KAROSHI」のまま通じるようになったのは記憶に新しいが、その背景には失われた30年の経済停滞で、徹底的にムダを省いて最高効率で人を使うことばかり意識した結果が、却って非効率で労働生産性が先進国ワーストで推移し続けているようにも思える。

 それでもなお、日本社会は合理化を進めているが、2割×5のリソースで400点を取ろうとするような考え方が、決して賢いやり方ではないことに気付く日は来るのだろうか。


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