話し合いで重要なのは結果かプロセスか

三浦です。だいぶ間が空いてしまいましたが、今回は自分が考える話し合いの意味について話したいと思います。

最近卒業旅行やら卒業論文やらで、友人と日程調整をする機会や研究員の方とお話しする機会が多かったのですが、自分と他の人とで話し合いという場の捉え方が少し違うのかな、と思ったことがあったのでそれを文章にしていこうと思います。最近政治哲学の勉強をしているので少しその影響を受けた文章になっていますが、なるべくわかりやすく書いていきます。

私たちは社会で生きていく中で話し合いを避けていくことはできません。みんな生まれも立場も違うし持っている能力も違うのですから、意見が衝突するのは当然のことです。自分一人で生きていくのは土台無理な話ですから、人と少しでも関係を持つ時点で意見の擦り合わせを行い全体で行う行動を決めなければなりません。

ここで、話し合いには2つの側面があることに気づきます。

1つめに話し合いは、集団としてある課題に直面した時の行動を決める目的があります。卒業旅行の日程を決める時、サークルの新しい練習方法を決める時、地域の共同体や国家が政策を決める時など、意見の違う個人の集合である集団が縛られる制約を決めるために話し合いは行われます。

2つめに、話し合いは合意形成の場でもあります。各々の意見が異なる以上、全員が100%満足できる意見が見つかることは非常に稀です。もちろん、自分の利益と集団の利益の大枠が一致することはありますが、自分1人だったらこうするな、という願望が集団全ての人にとって100%の理想であることはほとんどないでしょう。そうした場合は、話し合いの場を持つことそれ自体によって、全体の利益のために自分の理想を一部手放す合意を形成しています。

1つ目と2つ目の話し合いの捉え方は一見似た考え方のように見えますが、明確な違いがあります。1つ目の、集団を縛る制約を決めるという話し合いにおいては話し合いは手段として用いられます。確固たる目的として、集団としての行動を1つに定めなければならないということがあり、その正当な手段として話し合いの場が設けられます。一方で、2つ目の、話し合いを合意形成の場と捉える場合は話し合い自体が目的として存在します。個人が持つ自分の100%やりたい理想を手放し、全体の利益のために合意を形成すること自体が話し合いの目的です。
そのどちらを重要視するかによって、話し合いをどのように進めるかのスタンスに差が出てくるように思います。

簡単な例を出します。30人の会社で社員旅行に行くことになり、どこに行くかを決めなければなりません。
話し合いを手段として捉えるならば、最適戦略はその能力が最も高い、今回で言えばいろんなところに旅行に行っていてどこに旅行に行くと面白そうかに精通している人がその原案を作り、そこに対して周囲の人が意見をぶつけることになるでしょう。なぜなら、全員で集まって意見交換を行うことはとても非効率的であるし、半分くらいの人にとってはどこに行くかはどうでもいいのでそこに時間を割きたくないといった意見が出てくると思います。これは非常に理にかなっているし、大多数の人が満足できる結果をもたらす良い戦略であると思います。
一方で、話し合いを目的として捉える場合はその手法は最適ではありません。なぜならば、個々人が持つ100%の理想を侵害する権利は誰にもなく、各自が合意を形成することによってのみ、共同体の制約に縛られることを受け入れたことになるからです。1人が意見を出した時に、それに対して他の人が100%同調できることはないと考えるため、代表者の意見に修正を重ねて行くことの方が非効率になります。この場合の最適戦略は、各々が自分の100%理想である状態を掲示し、そのエッセンス部分を集約した意見の同意を取ることが良い戦略ではないでしょうか。

しばしば、前者を重要視する人にとっては「より優れた人の意見に対して、賛同票が集まるならばそれは無意識的に自分の理想を差し出し同意をしているのと同義である」と捉えられますが、私はそうは思いません。各個人の持つ100%の理想は、そのことを考えるのが面倒だとか、自分はどんな意見も受け入れるといった打算的な本人の考えさえも上回る重要な権利であると考えるからです。「本人がいいんならいいんじゃないですか」は認められるべきではないと私は思います。

そうした意味で、私は話し合いによってどういった結果が出たかということよりも、どういったプロセスで合意形成に至ったかを人一倍気にします。現実問題として、それでは意見を出さない(出せない)人の合意を取ることが非常に困難なために、時間の制約上仕方なく結論を出すことはありますが、理想としては全員の100%の理想を尊重しながら合意形成を行う必要があると私は思うのです。

リアリズム的な現代社会においては、迅速かつ効率的な意思決定を行うために優れた案を提示できる人の評価はどんどん上がってきていますし、とても尊敬します。ただ、その人が正しいかどうか、という点に対して私は異を唱えたいと思うのです。

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