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人に怒ると気持ちが良い

 の?

 ホントに?私には理解し難いが、関わるいろんな人々の様子からしてそう見える。少なくとも何か思い通りにいかないことがあったときに静かに堪えたり代替案を探るような人よりも弱そうな関係者を呼び出してキレ散らかす人間の方が大切にされている。そして我慢する側は軽くみられがちだ、見くびられる。

 そしてキレ散らかした後もなんだかずいぶん気持ちがよさそうだ。「この前〇〇が〇〇の時に舐めた真似しやがったから詰めてやった」「〇〇で何人泣かせたことがある」随分誇らしげ。一歩引いてみると「感情のコントロールができないだけなんじゃないの?」とか感じてしまうがどうやらコレは自慢できることのようだ。自分の思い通りにいかなくて泣きじゃくって駄々をこねるのと差は何だろう?私のような小物には大差ないように見えてしまうがどうやら前者はバシッと言える漢らしい。

 社会の全てがこの理で回っているのならば納得がいく。お互いに主張しあってバランスが取れるのならば問題ないもんね。

 別に私だって怒り・主張を押し通すこと自体を嫌っているわけではない。自分や周りの人の権利や立場を守るため、優位性を確保するために毅然と立ち向かうことは大切だ。"出るべきところ"では出ないと相手のなすがままとなってしまう。"譲り合い"の精神というのもあるが、"相手が譲ってくれる"こと前提でわがままを押し通す悪意のようなものも存在するからだ。「それ、ひと口ちょーだい!!」

 じゃあ何故こんなことにを違和感を持っているのかというと、この社会、誰かがキレる時以外はベッタベタのドロッドロの"連れション文化"で回ってんじゃん。なんでそれこれが両立すんの?

 食べる時もトイレに行く時も食べるメニューも好きなタイプも球団も全部一緒。全員一緒。水が欲しそうなタイミングになったら注ぎにいくし、飲みたくなくても要らないのにグラスの中身を減らして注いでもらうし。それに適応しないと「〇〇さー、そこは普通〇〇るところだろ」って何が普通なんだよ。

 そのクソ狭いコミュニティのツーカーを「普通」にすんなよ。"何事もテンポが重要だ"っていつも通りの会話といじりを何ターンも繰り返す。面白くもないことで相手にわかりやすく笑う。「ほら、こんなに笑っているでしょう、あなたと会話したことで私はこんなに楽しんでいますよ」ですって、検査器か。「いちいち話す前に考えるからお前はテンポが悪いんだよ」ですって。それがコミュニケーション能力ですって。鳴き声とどこが違うのでしょう。

 クールダウンクールダウン。まあとにかく、そんなべったべたな村社会なのに意見を通せるのは自分が不利になった時に不機嫌になるような奴なんだ。連れションしに行く便器をぶっ壊すやつが大切にされるんだ。なんなんだろう。

 連れション文化が大切ならそんな異分子なんて排除すれば良いのにそうはならない。「〇〇さんは気難しい人だから」で済んでしまう。どうやら仕方ないことらしい。

 みんなで行動している時に横道に逸れるのはダメなのに道ごと爆破することはOKなようだ。そいつが不機嫌になると、爆破されないようにみんなでちょっとずつ損をして気を効かす、道を譲る。私を仲間ハズレにしてどう立ち回るかのリハーサルでもしてんの?コミュニケーションって難しすぎる。

 (まぁその場で言わずにネットで愚痴ってるのも充分ロクでなしなんだけどね。それは許してちょ、、、さもないとアタイも不機嫌になるぜ)

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