うさぎのしめしめ

わたしたちをとりまく宇宙風のなかに ソーダ水の香りがするひとすじがあり わたしたちは鼻をひくひくさせてそのすがすがしいにおいをかいだ わたしたちの匂いはこれね。この宇宙であたしとおまえの魂が化学反応したにおいがこれね。/雪舟えま「ウサギちゃん夜のしめしめ」

雪舟と書いて「ゆきふね」と読むらしい。この文章をTwitterで見て参照元をたどろうとしたが、この『ウサギちゃん夜のしめしめ』というタイトルの本は見つからなかった。宇宙風のなかをさすらっているのだろうか。

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家族といるときの自分は、19で家を出てから第二の自分となった。
東京の自分を第一とすると、広島のわたしは第二だ。第二のわたしはだらしがなく、動きも重く、やはり少女のままを保とうとしている。

わたしの中にはいくつもの自分がいて、今のところすべてが分離せず器用に連携しあっている。それが良かった。だから東京で自分の生に向き合おうとしているのを、家族の前ではあまり見せようとしなかった。見せても理解されないと思っていたから。

東京は広島の何倍もの人がいるのに、広島にいるときより孤独がつよまる。大多数の人がまるで演劇をしている役者のように見えるからだ。会社員という劇、女性/男性という劇、客という劇、親という劇、子どもという劇、新人という劇、ベテランという劇…

劇を劇だと自覚しているときはまだ良い。問題は時が経つにつれ、劇を劇と思わないようになってしまうことだ。精一杯演じるうちに役者としての自分が肥大していき、いつしかそれを本当の自分だと思うようになる。

なぜなら社会は、「大人」というものに演じることを求めるからだ。社会は人に演じさせることで循環している。そうじゃないと混乱するからだ。
電車に乗っているときは「客」として静かに目的地までの時間を過ごす。目的地の会社に着いたら名刺を持った「会社員」として仕事に取り組む。仕事が終われば再び何かの「客」として対価を支払って何らかのサービスを受ける。

内田樹であったか、本当の「大人」はこの劇をちゃんとできてこそ大人と認められる、と説いていたような気がする。たしか文脈は「おじいちゃんがちゃんと『おじいちゃん』をすることの正しさ」とかそんな感じだったように思う。その場に合わせて、求められる「役」をきちんと演じ尽くすこと。それが必要なのだ、と。

もちろんわたしもその場で一応求められる「劇」はするし、できてしまう。でも劇をすればするほど気持ち悪くなってくる。もう一人の自分、演じていない自分がこちらを冷めた目で見てくるのだ。そして耳元でささやく。

「お前はこのまま演じている自分を『自分』にするのか」

と。役者の自分が本当の自分を凌駕してしまうことの怖さと気持ち悪さで、最近は折り合いがつかなくなってしまった。社会というものが、もはや壮大で巧妙な舞台のように見えてくる。

なんでみんなこんな真剣にお芝居をしているのだろう。なんで、もっと生身で生きられないのだろう。中途半端に生身になると社会というものに混乱を招くからだろうか。そんな疑問ばかり思い浮かべてしまう。

しかしさすがは東京で、母数が多くなれば必然的に生身で生きている人間の割合も多くなる。生身で生きている人間たちはあまりに純粋で、役を演じるという発想がないので大体苦労をしている。それでもたくましく生きている。奇跡を教えてくれる。わたしに、生きる喜び、人生の醍醐味のようなものを教えてくれる。

この世のすべての人がこんなふうに生身で生きられたら、きっと全ての争いや暴力は消えるのに、と真剣に思う。なんたらハラスメントや悲惨な事件、妬み嫉みや嫌がらせはすべて、人間が生身で生きられないことによる爆発だと思う。

けれども、剥き出しの生身で生きることは非常に難しい。しきりに何かを演じさせてくるこの社会で役を剥がし生身で対抗しようとするのは、川の流れに逆らって必死にボートを漕いでいるようなものだ。

川の流れに沿って生きられたら、どんなに楽なことか。気づかずにいられたら、どれだけしあわせか。それでも気づいてしまった以上、もう自分にとっての前へ漕ぐしかない。きっとどこかで流れているだろう、小さな支流を目指して。

流れに逆らううちに、何人もの同志を見た。生身のまま、励まし合いながら、みんな必死に漕いでいた。いろんなボートに乗って。ある人は芸術、ある人は音楽、ある人は職業としての演劇という名のボートに乗っていた。

そのうちの一人が今のパートナーで、わたしはその人と同じ方向を向いて支え合って生きていきたい、ということを両親に伝えた。冒頭の詩の一説でいうところの「わたしたちをとりまく宇宙風のなかに ソーダ水の香りがするひとすじ」を見つけたのだと。

案の定理解されず、わかってはいたものの、かなり落ち込んでいる。
両親はきちんと社会の流れに沿って、与えられた役柄を自らの使命として受け入れ、生きてきたからだ。それで私の「親」という役を一生懸命に全うしてくれたからだ。

流れに乗れなくてごめんなさい。
育ててきてくれた社会の流れに逆らってしまってごめんなさい。
親のことも好きだし感謝はしているけれど、そちらにはもういけない。自分も大きな社会の流れで育てられてきたぶん、恩恵を得ているぶん、あざむいて逆行するということに、皮肉ではあるがこれまた社会で教えられた義理が疼いている。今はもう、漕ぐのがつらくて仕方がない。それでもやめたら多分死んでしまうのでそうするわけにもいかず、ただ辛いと思いながら必死にボートを漕いでいる。

けれども同時に、今は漕ぎにくいこのボートもいつか軽くなる日は来ると信じている。逆流が逆じゃなくなる日はきっと来る。生身のまま自然に生きられる日は来る。

エッセイの終わり方が毎回わからなくなるのだが、今回は坂口恭平氏の言葉をお借りしよう。『お金の学校』という本に書かれていたシンプルなおまじないだ。

「大丈夫、きっとうまくいくよ。」

noteはなにかしら流れに逆らって生きている人が多いように思う。
支流をゆく人たちに向けて、なにか気の利いた言葉を送れるようにわたしも頑張ります。

辛いけど、大丈夫、きっとうまくいきます。

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