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抱擁

ハグが好きだ。きっと言葉という手段のその次に。

帰省をすると、私は母親とよくハグをする。
何も言わずに母親の胸元へいけば、無条件に腕を開いて私をだきしめる。いつでもあたたかくて、いつでもやわらかい場所。世界で1番の場所。何度も抱かれて、何度かは叩かれたこともあるむちむちとした腕で、そっと頭を撫でてくれる。

ハグをする時だけ、小刻みに揺れつづけている振り子のようなものがぴたっと止まる。それが何かはわからないけれど、ハグをしてはじめて、自分の中で何かがずっとうごめいていたことに気づくのだ。ゴミも喜びも邪念も沈静して、すべての時は止まる。

そこに流れているのは人間愛の地下水脈のようなものだ。

抱擁はしばしば親子や恋愛などの場面でフォーカスされがちな行為だ。
特別な関係性でないと、私たちは目の前の人をだきしめられないと勝手に思っている。

でも、そんなことは本当はどうでも良い。友人でも、よく知らない人でも、目の前の人をだきしめたくなる瞬間、もっというとだきしめるべき瞬間はたくさんある。だきしめたい時に、だきしめればいい。そうあるべきだとさえ思う。

抱擁がもっとフラットになればいいのに。ただただ目の前にいる人を安心させてあげるためでもいい。揺れ続ける振り子を一瞬でも止めるためとか、言葉でも口づけでもうまく説明できない思いを伝える手段とか、そういうものとして抱擁はある。

だいぶ前に、自分のおそろしい過去を目に涙を浮かべながら話してくれた男友達がいた。笑い泣きしながら、「てへへ」と言って涙をぬぐって済ませようとする彼をみて、無性にハグをしたくなった。でもできなかった。

すこし前に、京都からわざわざ来てくれた女友達がいた。ランチを楽しんだ帰り際、「じゃあね。ちょっと、ハグ」と言いながらさらっと私をだきしめてくれた。お互いの乳房もあたらないほどに、ほんの一瞬の出来事だった。

抱擁はもっともっと広い意味での愛情だ。人間愛のひとつの表現方法だ。抱擁の間に流れるものを、できることならずっと見ていたい。
どうかもっとこのコミュニケーションがフラットになってほしい。もっと抱擁がちゃんとまっすぐに伝わりますように、そして何より、ここぞというときに、なんの躊躇もなくそっと目の前の人をだきしめられるほどの堂々とした愛を持てますように。そんなことを最近よく思う。


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