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聞かせるために喋る人、伝えるために喋る人

今週は気分的に、普段は聞かないいろんな人のポッドキャスト配信を聞いていた。

こういう場所で「話せる人」を私はとても尊敬している。自分には絶対にできない。即興で的確な例をあげたり、聞き取りやすいテンションやペースで語ったり、クセのない口調だったり。考えたりものを書くのとはまた別の脳の使い方をしなくちゃいけないような気がしている。人と話すことって。

かくいう私も実はコロナ禍に入ってすぐの頃、暇に耐えかねて友人とポッドキャストの配信をしていたことがある。それこそ奇々怪怪ではないが、あんなふうにその週にみたもの、読んだものの感想や考えたことを語り合う文化的な配信だった。

しかしいざ録音を聞いてみると、まあ自分の語りの聞き取りにくいこと。「めっちゃ」とか「超」とか「〜みたいな」の乱用、早口、相手の言う言葉を充分にキャッチできてないはがゆさ…
ラジオDJとしては失格な語りだった。とにかくひどい。

そうか、わしは語りに本当に向いてないタイプなんだな、と本気で実感した。

それでさ、さっき歯を磨きながらふと思ったのだけど。

こういう配信でうまく語れる人って、自分が語っている相手だけでなく、「自分達ではない誰かリスナー」に聞かせるように喋ることができる人たちなのかもしれない。
対談相手と単に会話するだけでなく、そこを2人だけの私的な空間にとじてしまうのではなく、かならずそこに見えないリスナーを想像しながら喋れる人。そういう人が、うまく喋れてるのかなあって。

いっぽうの私はどちらかと言うと、今話している目の前の人に伝えることに意識が傾いてしまう。その時のバイブスに乗っかって表情や感情を表現したり、その時の相手の表情をよく見ながら様子をうかがったり。
そういう、今目の前にいる人とのコミュニケーションに集中するとどうしても、今ココにいないリスナーたちのことをすっかり忘れてしまう気がするのだ。あわよくば、この雰囲気をリスナーの人も楽しんでくれたらいいなァくらいのノリで。もはやリスナーのご厚意に甘えてしまっている。

なんだろう、何が違うんだろう。どうしても、私が喋ると感情が先行してしまうような気がする。感覚的な会話というか。
難しいが、私がラジオで喋る機会などないのでまあいいか、ということでこの問題はひとまず放置しておこうと思う。

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