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これは予感、これは希望


そして、川岸が語る。
三月の水。
絶望の終わり。

心の悦び。
心の悦び。
心の悦び。

この足、
この地面、枝、石ころ。

これは予感
これは希望

菊地成孔がパーソナリティをしていた『粋な夜電波』。そのなかでアントニオ・カルロス・ジョビンの有名な『三月の水』を解説する回があったらしい。曲解説のあと、菊池さんが歌詞を朗読する。上記の詩はそのときに読み上げられたものだ。

https://youtu.be/qDigScYSazQ?si=kehsK9jFVDQelsoG

色んなことが辛く、そして苦しくなってくると自然とこの菊池さんの朗読に戻ってくるようになった。

三月の水はそれこそ奇天烈な詩だ。「枝、石ころ、切り株の腰掛け、すこしだけひとりぼっち」…まるで身体の感覚をひとつひとつ確かめるかのような、もっと言うと感覚を「取り戻す」ような印象さえある。

美女と野獣の野獣は、最後はついにベルからの真実の愛を得てその獣の姿から元の王子へと姿を変える。そこで自分の手足をまじまじと見つめ、毛むくじゃらだった表皮がちゃんと人間の柔らかな皮膚になっていることを確認する。

それと同じようなことがこの「三月の水」には書かれているのだ。

聞くとジョビンは『イパネマの娘』で世界的大ヒットをした後、しばらく精神分析のケアをしていたらしい。菊池氏の解説ではその理由として妻とうまくいかなくなったこと、愛犬を間違えて銃で殺してしまった罪悪感、謎の死を遂げた父への思いがあると言っている。
三月の水は、そんな状況でもジョビンが徐々に絶望から希望へと、へとへとになりながらも向かっていく様子、その兆しが見えると言う。

この解説を聞いてなくとも「身体の感覚を取り戻す」印象を受けたのは、坂口恭平氏の自前翻訳で朗読を聞いたことがあるからだ。彼も躁鬱持ちで、数ヶ月に一度ふいに訪れる深い闇と闘う生活を何年も送っている。

辛くなるとこの三月の水の詩を、まるで井戸から手を伸ばすように求めたくなる。間違いなく癒やされるのだ。川のせせらぎ、じゃり道、森のなか。次々と視点が変わる。その度にジョビンはまた自分自身と、希望を取り戻していく。

だから最後がこうなのだ。

これは予感
これは希望

前半が混沌としていて、間違いなく疲れや諦め、絶望を感じるからこそ、ここに希望を感じる。光が見える。

雨に打たれて地面に落ちた真っ黄色のイチョウを、最近は真顔で踏んづけて歩いている。
冬なのに中途半端に暑いとムカつく。
コンビニに行っても全然美味しそうに感じない。
世界の色んなことが怖くてしょうがない。
それを平気でやってのけている人も怖くてしょうがない。

世の中の色んな基準が分からなくて混沌としている。周りが地球人なら、たぶん私は土星人だろう。私だけが惑星の違う宇宙人なんじゃないかと本気で思うことがあるが、間違えて不時着した宇宙人は時々いる。学生時代には火星人もいた。火星人の方が大変そうだった。生きられる場所が限られてそうな人だった。
本当は何もかも知っているはずのお天道様がずーっとだんまりを決め込んでいるのがもはや憎い。

何を言っているかわからなくなってきた。
要は三月の水は精神安定剤になりますから、ぜひ聞いてみてください、ということです。自分を取り戻しましょう。これは心の悦び、希望の予感。

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