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オニツカタイガーの靴底

*オニツカタイガーの靴底

学生の時から履いている、青いオニツカタイガーのスニーカーがある。青色にオレンジであの有名なラインが描かれている。生地はいかにも汚れのつきにくそうなさらさらとしたもので、靴底は真っ白でギザギザのゴムでできたクッションクッション性に優れている。一歩ずつ真下にストンと足を落とすと、平らな靴底が「ポト」といって地面に垂直に吸い付くのが面白い。

けれどこの靴にはトラウマがある。
昔この靴を履いて夜道を歩いていたら、見えない段差で足を盛大に挫いたことがあった。あまりの痛さに立っていられず、隣を歩いていた弟に泣いてすがりついた。「お願いだから、タクシーで帰ろう」と。徒歩20分の道のりをタクシーで帰った。

家に帰って親にいうと、「捻挫でしょ」と軽くあしらわれた。わたしはこんなにも痛いのに、と若干腹を立てたものの、その頃はよくいろんな靴で挫いていたのでどうせいつもの捻挫だろうと思っていた。

しかしそれから数ヶ月たっても痛みが引かない。痺れを切らして、ある日学校から30分ほどの整形外科に行ったら骨にヒビが入っていることが分かった。医者に言われた。「痛かったでしょ」と。

足首とのバランスが取れていないのか、またはトラウマか、今もこの青いオニツカタイガーを履くと、ふと足元がよろめくことがある。しかも何でもない、段差ですらない場所で。

オニツカタイガーの靴底をポトポトと音を鳴らして歩くのは、いつかのヒビを恐れているからなのだろう。特におもしろい気づきはないが、書きたかったので書いてみた。

*それでいい

ずっと前から、絵を描くように言葉を使いたいと思っている。

絵は何色で何を描いても怒られない。「わからないから描き直せ」とは言われない。りんごを青で描いても、黒で描いても良い。好きな人の皮膚を水色で描いても気持ちわるがられなかった。下手くそでも、そこに何かをこめることが出来た。わかる・わからないの2つの世界ではなかった。そして、下手でも一生懸命に感じ取ろうとしてくれる人がいた。絵は要は、何を感じるかだけの世界だった。絵は私が見ている世界を、できるだけそのままの形で可視化することが許された。その温度に救われた。今もそういう世界があると知っていることで心がすこし楽になる時がある。

言葉は意味と直結している。だからしばしば完璧を求められる。意味や論理がすこしでも破綻すると、すぐさまこう言われる。

「何を言いたいのかさっぱりわからない」「もっと詳しく」「それ、矛盾してるよ?」「つまりどういうこと?」

どうって、こうなんだよ。

間違えた。

言葉とは、そういうあわいが伝わりにくい手段だった。もしかすると言葉では伝えきれないものを、わたしは言葉で伝えようとしているのかもしれない。

流れ。重み。余白。異質な言葉の組み合わせ。そこから連想されるイメージ。

わたしにとっての言葉はいつも絵画だった。誰が何を言いたいのか、何を込めようとしているのか。すべては言葉のイメージを全身に浴びて、いつだって言葉を感じようとしている。言葉は感じるものだ。

それを阻むのはいつだって言葉の世界のお作法、「文法」というものだった。

文法が嫌いだ。文法さえわかっていれば、文法さえ踏んでいれば、なんでもわかった気になれる。伝えられた気になれる。

わたしの好きなバンドマンが、ラジオで一生懸命最近読んだ本を紹介していた。語りは苦手だろうに、よりにもよって難解な内容を難解な語り口で公共電波に乗っけることをしていた。

島口大樹という、わたしと同い年の作家が書いた『鳥が僕らは祈り、』だった。最後に句読点で終わっていることからも察せるように、この本は全体的に句読点のつく位置が奇妙だ。文中の変なところに句点をうち、逆に必要なところではうたない。最初はそういう文章の持つリズムに慣れてなくて若干の読みにくさを感じたものの、すぐに慣れてきた。

なぜならそれが、わたしたちのいわゆる「口語」に近い文体だったからだ。そこに書かれているのが、清々しいほどに自由な文体だったからだ。

句読点のルール? いえ、これが良いのです
読みにくい? そうですか
途中でカギカッコが終わってる? それがいいんじゃない。

そんなやりとりが本の中から聞こえてきた。

ここに私は長年かかえてきた、文体への葛藤や息苦しさをほとんど全て手放すことができたような気がした。「読みやすさ」を意識し、整いすぎている表記。それは捨てられるものなのだ。

リズム。今、巷にあふれている「わかりやすい文章」とは、一度読んだだけで完全な意味が入ってくるようにスラスラと読めるものを指しているように見える。けれど読みやすい文章を書くのは意外と難しい。センター試験のように簡単なのに、意外と難しい。コツがいる。そしてなにより、窮屈だ。

読みやすい文章のためのルール。読みやすさの果てに捨てられたものを必死にかき集めている。

文章はいつのまにか先人たちが気づいた「かくあるべし」で手垢まみれになっている。わたしはそういう窮屈な文章の世界がどうも嫌で、もっとのびのびと使いたいと常に思っている。意味に縛られている、言葉というものの表現を広げたかった。言葉でどこまで自由に飛べるか試してみたかった。

言葉できちっと何かを伝えるより、自分にしかわからない(かもしれないが)存在だけは確実なことを、ただしい、それとしか言いようのない言葉で言い表してみたかった。説得力はロジックはさておき。

けれども短歌は短すぎ、詩は思考に不向きで、エッセイはしきりに結論を求められる。
じゃあ何にすればと頭をかかえていたとき、出会ったのがこの島口さんの『鳥が僕らは祈り、』だった。

そうだ、もっと文章は自由でいいんだ、と、それこそ鳥が空を飛ぶように感じた。

文法も知らない、リズムも知らない、意味も知らない。心に思い浮かんだことを脈絡もなく書き殴る。そんな文章を書きたくなった。絵を描くように文章を書きたい。また空を飛ぶように文章を書きたい。


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