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「横浜FCの力になりたい」大学No1の司令塔。法政大・田部井涼の決意


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☆横浜FCさんより写真をご提供いただきました。誠に感謝申し上げます!


最高のゲームメーカーがJ2へ

大学サッカーを追う中で、内定リリースは1つの醍醐味であることは言うまでもない。「あの選手はここを選んだか」「このチームのサッカーにハマりそうだな」と、想像を色々と巡らすのは楽しいものだ。

今年も多くの大学生が進路を決めている。その中で特別印象的だったのが、横浜FC入りを決めた法政大・田部井涼の決断である。


今年の大学生ボランチの中で、最も攻撃に怖さを出せる選手は彼だ。個人的にそう思っている。

知っているファンも多いと思うが、彼は第96回全国高校サッカー選手権大会で優勝した前橋育英の主将だった。前橋育英にとっては初の栄冠である。

質の高い左足のキックから発揮される左右への展開、正確な足元の技術が成す中盤での高いキープ力、得点に繋がるセットプレーと攻撃面で多彩な武器と魅力を持つ。ゴールへ向かう起点にも中継点にもなれて、一発のフィードで決定機を生むこともできる。

実力も実績も十分だし、今年の大学サッカーで彼以上のゲームメーカーはいない。自信を持ってそう言える。

だからこそ、彼が決してJ1の強豪ではない横浜FCに進むのは意外だった。極端な話、J1王者の川崎フロンターレが獲得しても全く違和感がない。

結果的に彼はプロ1年目の2022年シーズンをJ2で戦うことになった。4月の時点でそれを予想してはいなかったと思う。ただ、歴史的にJ2が主戦場だったことや昨季(2020年)の15位という順位を考えれば「来年はJ2かもしれない」と予測をたてるのは難しくはない。決断を先延ばしにして他クラブからのオファーを待ち、複数の選択肢から選ぶこともできたはずだ。

それでも、田部井は横浜FCに決めた。その裏には大きな覚悟がある。


「僕はこれまで勝つのが当たり前なチームにいたけど、決してそうではないチームへ進むことが、“化ける” ための良い機会だと捉えています。自分が横浜FCを変えたい。勝利の力になりたい。それはやらなければいけないことかな、と」

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変化の過程

群馬県前橋市で生まれ育った田部井は、双子の兄である悠(早稲田大学4年)と共に小学校3年生でサッカーをはじめ、中学時代は名門・前橋FCでプレーをする。ちなみに水泳もやっていたのだが、「コーチが怖すぎて辞めた(笑)」という裏話がある。

サッカーだけではなく学業もまじめにこなし、「学年の順位も一桁」だったと言う。前橋FC→前橋育英はひとつの “鉄板” ルートだが、学業成績ゆえに高校選びの進路相談では地元の進学校である高崎高校を勧められたのだとか。

ただ、最後は「サッカーで勝負をしたい」という思いが勝った。

「やっぱり、選手権への思いは強かったですね。ちょうど入れ替わりの代に鈴木徳真さん(徳島)を見ていて強い憧れがあって。プロになりたいというよりは選手権に憧れていたので」

3年次に主将を務め全国制覇という最高の結末を迎えたが、プロからのオファーはもらえず、法政大へ進学した。

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大学3年での変化、上田綺世の教え

選手権優勝校の主将として希望を持ち門を叩くも、そう上手くはいかなかった。

「1,2年生から出れると思っていました。でも、レベルの高さに圧倒されたなと。通用しないわけではなく、今ひとつというか。プレーヤーとして悪い意味で丸く収まってしまっていたなと思います。今だから言えますけど、大学1年のときはだいぶブレていましたね。自分の得意なプレーが出せずに、打ち砕かれました。武器である左足の展開が強度の高さで潰される。そこは一番圧倒されたところです。」

精度の高い左足での展開やさばきが武器であったが、それが思うように発揮できない。学年が上がるにつれて徐々に出せるようにはなってきたものの、ゴールへ向かう怖さがないことを自覚した。

「周りの仲間や指導者の方にも聞いた中で、前への推進力や前線に顔を出す回数に意味があると。“横” ではなくまずは “前” だと。自分に足りなかったのはそこだと感じたので、しっかり表現しようと思いました」

そして、田部井の成長に際して一役買った選手がいる。日本代表のFW,上田綺世(鹿島)だ。2人は全体練習後の自主練を共にし、 "受け手“になる上田は“出し手” の田部井に多くを要求した。

「『とにかく出せるときにパスを出せ。ずれても良いしミスをしたら俺の責任だから』と言われて。そういう意味では左足のパスの工夫も足りなかったと思いました。綺世くんはそこを考えて言語化して、アドバイスもしてくれました。そういう選手が上にいくということを、まざまざと見せつけられましたね。大学サッカーではすさまじい結果の残し方でしたし、その理由を感じさせてくれた選手でした」


複数クラブからのアプローチの末…


3年の中頃から定位置を掴んだ田部井のパフォーマンスは、関東大学サッカー1部でも際立ったものだった。ただ “さばける” 選手からゴールに直結するプレーを出せる "怖い" 選手に変容していった。

その過程で、横浜FCと出会う。

「先輩の高木友也さんが横浜FCに決まっている中で、スタッフの方が視察に来た際に目に止めてもらって。3年の夏明けくらいから試合に出始めたので、そのあたりですね。その後、2月のキャンプに呼ばれました。実はいくつかのクラブから呼ばれていたのですが、早い段階から見てくれていた横浜FCに行こうと。結果としてそのキャンプ参加で自分の中で意識していたことが体現できたんです。

あとは、福田健二(強化ダイレクター)さんが求めているプレーと、自分がやろうとしていることがマッチしたのも大きかったですね。その後のデンソーチャレンジカップを経て複数のクラブから練習参加の打診もありましたけど、やはり福田さんの存在が大きかった。僕のさばきや展開を褒めてくれる人は多いですし、それは嬉しいですけど、それにプラスアルファして自分が意識的に取りくんで変化した部分を評価してくれたので。それが純粋に嬉しかったです。」

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「横浜FCをJ1で勝てるチームにする」


冒頭に記した筆者の感想を正直に本人に当ててみると、こう答えた。

「周りの人からも『もっと上のクラブにいけたんじゃない?』と言われます。でも、先輩の坂元達裕さん(C大阪)が代表になったような道がいいのかなと。僕も一気に階段を登るタイプでもないですから」


プロ入りを決めた田部井が次に掲げる目標は、“5年以内のA代表” だ。いつどこで話をしても、彼はこの目標について語気を強めて語るから、筆者の中で印象に残るフレーズになっている。

「横浜FCをJ1で勝てるチームにするのに2年はかかると思っているので。1日1日で全てを出し切るくらいの日々を送って、3,4年で更に上に行きたいし、勝負をかけたい。5年後までには日本のトップに行くということは考えています」

どのくらいのスピードで階段を登っていけるかは、蓋を開けてみなければわからない。ただ、その道程で苦しい経験があっても、彼は最終的に目的地にたどり着けるような気がする。

何よりも、そのプレーと人柄、そしてこの進路選択の覚悟と全てを含めて “応援したくなる" 選手なのだ。なにかあっても周りが助けてくれるはず。

挫折もあるかもしれないが、そこを乗り切れる力があると思うし、彼が歩む成長の過程をしっかりと見届けたい。


横浜FCから日本の頂点を目指す旅が、幕を開ける。

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