「たこ」の話

犬を飼い始めたのは16のとき。生後1か月の、てのひらほどの小さな犬を譲り受けた。それより前に、何年か一緒に過ごした犬がいる。

名を「たこ」という。名前の由来は知らない。

私が小学校3年のとき、よくチビという名の大きな犬を飼っている家に出入りしていた。散歩に行くためである。優しいご夫婦が飼っていて、いつもチビと遊ばせてくれた。その家に住み着いた野良犬が「たこ」だ。

たこは瘦せ細った長毛の雑種で、少しきつねに似ている。固まった毛によって、耳が4つあるみたいに見えた。最初のころは、野良犬であるたこが怖かった気がする。しかし、たこは「あっちに行って」というと、さっと姿を消す。子どもたちが遊ぶのを、よく遠くから見ていた。

チビの散歩に行くと、たこも後ろをついてくる。そうしているうちに、たこと遊ぶようになった。まだ世間が、比較的野良犬に寛容だったころの話だ。私の家の近所には野良犬軍団がいて、たこもその一味だった。

食事は与えていないが、給食で残ったパンなどは一緒に食べていた気がする。やがて、たこは我が家に住み着いた。

たこのお気に入りは、庭にある沈丁花の下だ。昼間、特に何もしていないときは、たこは沈丁花の下に座っている。呼ぶとどこまでも一緒についてきた。登校しようとすると、たこがついてくる。校門まで一緒に行くのが日課だった。たこは勝手に帰る。そして帰宅した私が呼ぶと、すぐに走ってきた。本当に賢くて、どこに行っても自力で帰宅していたものだ。

日が落ちて、私たちが家に入ると、たこは玄関の前で丸くなる。気まぐれに玄関を開けると、いつもそこにはたこがいて、目をきらきらさせていた。深夜になると姿を消し、また早朝に戻る、その繰り返し。野良犬であるたこは警戒心が強くて、私にすらおなかを見せることはなかった。抱っこはさせてくれるのに、腹を見せて仰向けになることはない。それでも絶対に嚙んだり吠えたりしなかった。小さな子どもと遊ぶときは、決まって遠くから静かに見ている。

犬の愛情深さを教えてくれたのは、間違いなくたこだ。私が父親に強く叱られて泣いているとき、体調が悪いとき、悲しいとき、たこはいつも、そっと近くに座ってくれる。外にいる限り、離れない。しんぼうづよく私たちの遊びにつきあってくれた。春も、夏も、秋も、冬も。両親は最初こそ困っていたが、やがてたこは日常の存在となった。ドブに落ちて泥まみれになっていたたこを、家族全員で洗った日もある。飼ってはいなかったが、限りなく家族に近い存在として認められていた気がする。

一緒に過ごした日々は、約2年。

小学校5年生の、5月の、第2土曜日。まだ土曜日も学校があったころだ。いつものように学校に行こうとしたのに、家を出て、板金屋さんを過ぎたあたりで、たこが座った。

学校に行かなくてはならない。普段だったら一緒に学校まで行くのに、たこは動こうとしなかった。「学校行くよ」と声をかけても、座っているだけ。様子がおかしかった。約2年、毎日一緒に学校に行っていたのに、その日はどれだけ呼んでも動かない。遅刻してしまう、と私はあきらめた。

「じゃあ行ってくるね。またあとでね」

そんな話をして、手を振って別れた。振り返ると、たこは座ったまま、私を見ていた。それが最後にたこを見た記憶だ。

それきり、たこは姿を見せなくなった。姿を消したたこを、気が狂ったように毎日探した。でも、見つからない。親からは、死期を悟って姿を消したのかもしれない、といわれた。たこは、若くなかったと思う。いま思えば妊娠していた時期があった気がする。子ども過ぎたので、よくわからない。

あの朝の様子から考えると、死期を悟って姿を消した、が正解だろう。たこの連れたちは、その後も近所で見かけた。保健所に連れていかれたとは思えない。

どれだけ泣き暮らしただろうか。ある日、たこによく似たメスの野良犬が、ひょっこりと現れた。私はその犬を「ぶたこ」と名付けた。ひどいネーミングセンスである。しかし「たこ」の名を入れたかったのだ。たこは金に近い薄い茶色の毛だったが、ぶたこは濃い赤茶だった。顔は似ていたが、ぶたこのほうが少し鈍くさい。たこほど賢くはなかった。ぶたこは、我が家に住み着くのではなく、気が向くと遊びに来る。ぶたこがいたのは、1年ほどである。たこの子だったのかもしれないが、わからない。もちろんぶたこも可愛かった。たこを失った私を慰めてくれた。

沈丁花の香りが漂ってくるたび、あの木の下で、丸くなっていたたこの姿を思い出して涙が出る。あれから30年以上にもなるが、忘れられない。死期が近いなら看取ってあげたかった。最後の瞬間まで一緒にいたかった。でも、たこが別れを選んだ。受け入れるしかない。

高校生になって犬を飼い始め、30を過ぎて看取った。そのあとに飼った犬も、今は星になっている。いま一緒にいるのは、我が家にとっては3代目だ。まだ若くてやんちゃで、騒々しいが愛おしい。犬との別れは壮絶につらい。別れのたび、私は何か月も泣き暮らす。犬の気配がない家に耐えられない。特に出かけて帰ってきたあと、その喪失感に苦しめられる。

それでも、大切な犬を看取れるのは、どこか幸せなことだと思っている。苦しくてもつらくても、最後の一瞬まで一緒にいられるのは多分幸せなのだ。いきなり姿を消してしまうよりも。

「たこを飼おう」と何度提案したかわからない。しかし、両親には、自由を奪うのはかわいそうではないのかと諭された。おなかいっぱいになるまでご飯をあげて、何の心配もない暮らしをさせたい……という願いは叶わなかった。それが正解なのか、今でもわからない。今でも、たこが姿を消したことが、寂しいと思っている。もっと一緒にいたかったし家族として迎えたかった。離れたくなかった。犬の素晴らしさを教えてくれたのは、間違いなくたこである。

あの、きらきらした目が今でも忘れられない。優しくて賢い、私にとっては大切な犬だった。

親戚の家に1枚だけ、たこの写真がある。遊びに来た叔母が撮影してくれたもので、手元にはない。写真すらないのは寂しいことだ。いつか、その写真を撮らせてもらわなくては。そうしたら、このnoteに載せよう。

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