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車椅子イオンシネマ問題、あるいは恩という借金について

 車椅子に乗った女性が、イオンの映画館で揉めた話がネットで話題になっている。(↓の記事を読むとネット反応がよくわかる)

https://note.com/dokuninjin7/n/n0159e82198a9?sub_rt=share_b

 確かにネットの情報を見る限り、件の車椅子の女性は随分と我儘に思える。障害者対応の劇場があるのにもかかわらず、わざわざ対応していない劇場のチケットを購入し、そして従業員に運んでくれと要求したらしい。
 健常者が普通にできること(その劇場で映画を見ること)は、障害者にもできるようにする義務が社会にはある、との理論が見える。

「弱者への配慮は、社会の当然の義務だ」という、昨今のポリコレ主張の実例とも言える現象だ。
 そして、ネット上では「これは健常者からしたらとんでもない主張だ」という拒否感が噴出している。

「弱者への配慮は当然の義務だ」という主張には、「弱者にとって、配慮してもらうのは当然の権利なので、わざわざ感謝する必要はない」という理屈も含意されている。

 配慮される側が、その配慮に対して感謝したくないという感情は一見、理解しがたい。
 例えば、女性専用車両は、痴漢の恐怖なく電車に乗りたいという女性への配慮であるが、大部分の女性は、女性専用車両を用意してもらったことに対してあまり感謝したくないだろう。安心して電車に乗れることは、当然の権利だからだ、と。

 なぜ配慮に対して、人は感謝したくのないだろうか。
 これはよくよく考えてみると、当たり前の感情だ。少し私の経験を述べたい。

 私は8年間、陸上自衛隊に所属していた。自衛隊では、風邪を引くと、必ず病院に行かなくてはならない。だから、私は風邪を引いても隠したものだ。熱が38度を超えても、私は大丈夫なふりをして、周囲に悟られないようにした。冬の北海道で、意識が朦朧とするほどの高熱なのに、歯をガタガタ振るわせながらトラックの下に潜り、水浸しになりながら洗車したこともある。
 別に病院嫌いではない。ただ、私は車を持っておらず、病院へ行くとなると、誰か車を持っている上司に乗せてもらう必要があって、それが嫌だったのだ。

 新隊員の頃、風邪を引き、先輩の車に乗せてもらったことがあった。病院に着くまでひたすらに嫌味を言われた。「車の中であんまり咳するなよ」「俺もやることあるのに、こんなことしてる場合じゃない」「もっと暇な奴いるのに、何で俺がお前の病院送り係に選ばれんだよ、上はわかってないなぁ」とくどくどと小言を聞かされ続けた。
 もちろん、こんな先輩の車には二度と乗りたくないと思ったが、たとえそれが優しい先輩上司だとしても、やはり心苦しかった。
 それは、その恩に対して自分が恩返しできないからだった。
 もし、普段から私が世話を焼いてる後輩が、私が風邪を引いた際に車に乗せてくれるとなったら、そこまで心苦しくはない。
 しかし、私がメリットを与えたことも、今後与える可能性も殆どない相手に、恩を作るのは苦しい。返済できない恩という借金が、心を締め付けるのだ。

 もし身体障害者だった場合、日常的に、不特定多数の人に助けられる必要がある。
 顔見知りだけで成り立つ古代の小バンドならば、障害があっても、コミュニティメンバーにいずれ何かしらの貢献ができる。そもそも、家族や感情的繋がりのある仲間ならば、存在するだけで貢献になりうる。
 しかし現代社会では、二度と会わない赤の他人に、つまり恩返しができない相手に助けてもらわねばならない。

 その苦悩から解放されるための手っ取り早い道は、自らを王族と認識する方法だ。
「他者が私のために何かするのは当然だ。なぜなら私は王族だからだ」
 と思えたら、気は楽になる。
 配慮に対して感謝は必要ないという主張は、まさに自らを王族と認識した者達の理論武装だ。

 今回は車椅子女性が話題になったが、この方法で楽になろうとする者は世に溢れている。

 例えば「誰のおかげで生活できてると思ってるんだ」と専業主婦に言う夫も同じだ。
 食事を作ったり、掃除をしたり、家事というのはリアルに夫を助ける。夫はそれに対して恩を感じる。しかし、夫はその恩を返済できないと感じる。なぜならデスクワークをして、給料が銀行に振り込まれて、それが家計を支えているというのはリアリティーがないからだ。ホモサピエンスの認知力を超えているのだ。
 だから夫は居心地の悪さを抱く。自分だけがケアされていて、その恩返しができていない状態に苦痛を感じる。そして王族化し、暴君のようなセリフを吐く。一方的にケアされるのは、当然だと信じたくて、暴君になる。

 反抗期の子供もまた同様だ。子供は成長すると、親から一方的に生活全般を支えられている状態に苦しくなる。何しろ、毎日借金が増えていく通帳を見ているようなものなのだ。
 だから、王族化して、暴言暴力を撒き散らす。第二次性徴期の段階で、大人達と一緒に狩や採集に行けるならば、反抗期などない。しかし、ただひたすらに恩という借金を親から与えられるのには耐えられない。

 王族化はもちろん根本的に危険を孕む。何しろ認知を歪ませているだけなのだ。人格を破損させるだろう。

 だが、ホモサピエンスの認知できる範囲内でウィンウィンな関係を築くのは不可能だ。ブルシットジョブが溢れたこの世界では、自分の仕事は何の意味があるのかわからないことも多い。たとえ、ごみ収集のような本当に誰かの役に立つ仕事だとしても、感謝の肉声なき社会では、貢献の実感を持てない。

 我々は群の動物として進化してきたので、恩に対して恩返しができないければかなり強い苦痛を感じてしまう。そこから逃れる正当な手段は、貢献を実感できない現代の社会構造故に断たれてしまった。自己を王族と錯覚させる誇大妄想で凌ぎ、人格を破綻させるしかないのだろうか。

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