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強くなければサイコパスになれない

 同棲相手がよくノベルゲームをしている。この前は『百花百狼~戦国忍法帖~』というゲームをしていた。イケメンイラストのキャラクター達と恋愛していくという乙女ゲームというジャンルだ。

 ゲームが終わった後、彼女がヤンデレ(創作物におけるヤンデレ)について語りだした。しかし話を聞いた後も、ヤンデレというものの定義がよくわからないままだった。そもそもツンデレやメンヘラだったら人口に膾炙しているし、共通認識があるが、ヤンデレとなるといまいち判然としない。病んでいて、デレデレというところまではわかるが、執着、狂気、の度合いなど含意される細部には謎が多い。

 『百花百狼』では黒雪というイケメン(そもそも全員イケメンイラストだが)がヤンデレとされているらしかった。しかしプレイした彼女は「黒雪はヤンデレっぽいけどヤンデレではないんじゃないかな」と言い始めた。門外漢からは十分病んでいて、かつ主人公を偏愛していたからヤンデレでいいのではないかと思えたが、何かが違うらしい。

 分析してみると、違和感の原因は、黒雪がサイコパス的に主人公に固執していながら、中盤に敵に囲まれるやいなや「自分のことは置いてお前は逃げろ」的なしんがりの振る舞いをするシーンにあった。挙句には、負けそうになったところ他の忍者が現れて(主要登場人物は全員忍者)難を逃れる。

 まず第一に、ヤンデレなのに相手と離れる選択する時点で執着が足りない。
 ヤンデレの条件には「執着」は必須であるのだろう。だから、いくら命の危機があったとしても、自分と離ればなれになってしまう道を選んではヤンデレ要件を喪失してしまう。
 そのキャラクター矛盾は、例えるなら、『永遠の0』の主人公パイロットが、必ず家族の元に帰るという信念を持っているのにも関わらず、特に何の起承転結もない中盤で身の危険を顧みない戦闘をしてしまうようなものだ。確かに、物語は登場人物の成長(変化)を描くものだから、どこかの時点で当初のキャラクター像ではしないはずだった選択を取る。しかしそれはまさに物語のクライマックスであり、むしろその変化する過程こそが物語だ。『永遠の0』の主人公ははいずれ、様々な想いの果てに、必ず家族の元に帰るという己の信念を斬って、特攻を選択する。それは物語を通じて、重大な事件や出会いの中で変化するという過程があってこそ成立する。
 ちなみに黒雪は終盤はまさに成長の結果、自分のエゴではなく相手の幸せを優先して身を引こうとする。それはいいのだが、中盤のモブ忍者に囲まれた時は、まだその「成長過程」を描いていない何でもない時期であった。まだ純ヤンデレでいなければいけないのに、「執着」のない振る舞いをしてしまったため、ヤンデレものとしての純度を下げてしまった。

 第二に、モブ忍者に負けるというのがサイコパス度を極端に棄損させてしまっている。
 ヤンデレの欠かせない点として、狂気(サイコパス要素)があるのにもかかわらず、負けるという流れが不自然というわけだ。
 確かに、サイコパスと強者性は現実世界では全くの別ものだ。しかし、物語においてはサイコパスは強者性を備えてなければならない。

 考えてみると、物語におけるサイコパスの魅力は強者性にある。『羊たちの沈黙』のレクター博士が弱かったら魅力はない。
 よく「強くなければ優しくなれない」というが「強くなければサイコパスになれない」も言える。
 黒雪がヤンデレを全うするには、敵に囲まれた時に主人公だけを逃がすわけでもなく、また負けるでもなく、力の覚醒なり頭脳プレーなりで、自分の恋路に水を差す敵たちをこの上なく残虐に殺戮すべきだったのかもしれない。その強者性がサイコパス要素を成立させるし、サイコパス要素があって初めてヤンデレの基礎構成要件を満たすのだろう。

 ここまで考えると、ヤンデレというのはキャラ属性というような単体で存在できるものではなく、「ヤンデレもの」という物語全体に及ぶ規模をもって成立するように思える。

 さて、ヤンデレが女性人気をニッチながらも獲得しているのは、相手の幸せよりも、むき出しのエゴで偏愛を突き通す点にあるのだと思える。
 やはりエゴというのはあらゆる物語において重大なテーマである。『ブルーロック』ではそのまま「ストライカーはエゴイストになれ」と登場人物が言いまくっているが、エゴにこそ人間が描写されるのはあらゆる物語に共通だ。

 そういう意味で「闇落ち」はまさにエゴの伝統的な表現である。色んな作品で観測できる。ただし、これもまた安易なヤンデレが「ヤンデレじゃない気がする」とファンに評されるように、描くのが難しく、「この闇落ちってなんか腑に落ちない」と読者に思われがちである。

 私としては最近だと『呪術廻戦』の夏油の闇落ちが不自然に見えたし、『ナルト』のサスケの度重なる闇落ちも白ける思いがした。
 多くの作家が「闇落ち」を描く場合、善人からの闇落ちであるが、実際のところ、それはかなりの確率で失敗する。
 一方で上手くいく「闇落ち」は、『ベルセルク』のグリフィス、『ハリーポッター』のヴォルデモートなどで、要するにもともと根に冷酷さを兼ね備えていた者が闇落ちするという筋だ。そういう意味では「闇落ち」は落ちるというか、闇属性の人間がさらなる闇へ昇華するような現象と言える。他にも『進撃の巨人』のエレンも、もとから攻撃性や理想主義的な過剰さがあったので、地ならしの選択がスッと理解できる。
 逆に、今まで善良だった者が、何かのきっかけで闇落ちすると、まるで別人のようになってしまい、物語の粗に見えてしまう。よくある手法は、劣等感による闇落ちだが、善良だったキャラクターからの飛躍に作者も耐えきれず、結果的に『AKIRA』のデコ助野郎みたいに人格破綻者として描いてしまう。それは記号的なモンスターになってしまうので一気に深みがなくなってしまう。かといってモンスターにせずに正気を保たせても、地続きの人格にはおよそ見えず、外見以外は別人になっているので、同人物の変化としてせっかく描こうとした闇落ちが無意味な過程になってしまう。

 病みでも闇でも、物語で描くのは容易じゃない。
 


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