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自分の仕事に意味があると信じているのか

「競争によって社会は進歩している」
 という価値観が現代社会にもまだ強く残っている。
 日常生活レベルで見れば、確かに切磋琢磨を実感する機会もあるし、スポーツは明らかにその価値観を強化している。
 人が生きることと、スポーツは全くの別物なのだが、多くの人が生きることがあたかもスポーツ的な性質があると信じている。
 なぜなら現代先進国の主体ビジネスはスポーツ寄りだからだ。だが、生きるために働いているはずなのに、その実、従事しているビジネスは生きることとは無関係という奇妙な状況にある。

 例えばマンモスを狩るといった行為は、すなわち人が生きることであるが、その際には競争は行われていない。皆で協力してマンモスを殺し肉を分配するという過程に、競争は発生しないのだ。人が生きるということは協力だけで成立する。
 一方で、スポーツとなると競争して勝敗を決める性質がある。だが誰が一番槍投げが上手いかと競い合っても、それは人が生きることとは関係がない。
「槍投げが上手い人が多くなった方がマンモスの肉が沢山手に入るではないか」
 という意見もあるかもしれないが、マンモスの身体能力は決まっているので、すでにそれを狩る力があったのならば、敢えて槍投げを上手くする必要はない。皆が競争した結果多くの肉を獲ったとしても、余剰の肉はすぐに腐ってしまって、人々が生きることに何の貢献もしない。

 しかし、現代は貨幣という腐らない肉があるので、私たちの認知をおかしくさせている。
 マンモスの肉ならば、競争して沢山獲っても腐らせるだけだから、競争は生きることとは無関係だという認識が自然と生まれる。競争はあくまで遊びとしてのみ存在しただろう。
 一方で、貨幣ならば、競争して沢山獲ることは、あたかも生きることと関係があると思わされても疑問を抱けなくなる。いくら貯め込んでも腐らない肉は、あればあるほど生存に役立つはずだと感じてしまう。

 実は、現代の我々日本人のしている殆どの仕事は、遊びなのである。生存には全く役立たない競争をしている。毎日通勤電車に乗ったり、テレワークでパソコンを見つめながら打ち合わせしたり、パワポで資料を作成したり、なんだか色々しているが、別にそれが"毎日大人の運動会"に取って代わられても特段に問題はない。ビジネスで成功した人が多く稼げるのと、大人運動会をして一位から順に多くお金が配られる社会なのと、何も変わりはしない。ホワイトカラーの殆どの仕事は、徒競走と同じくらい無駄なのだ。徒競走の方がエコだし全然マシだろう。

 しかし、洗脳された人々は競争によって、社会は進歩するのだと信じてしまっている。
 進歩は競争ではなく、そこに物資とエネルギーが投資され、人々が協力すれば起きる。むしろ競争は、世界のリソースを浪費し、しかも協力を阻害して進歩を遅らせる。
 だから地球環境を考えても、人類のメンタルヘルスを考慮しても、我々はさっさとこの、壮大な資源の無駄使いかつ無意味な競争をやめるべきなだの。ベーシックインカムを貰いながら、エッセンシャルワークをすればいい。

 もちろん大きな問題がある。理屈の上では、協力社会で、適宜進歩させたい事業にリソースを投入するシステムが構築できれば、競争社会の何倍も効率よく社会は発展する。
 だが、投資の選択権を人が持ってしまった場合、かつての共産主義と同じ轍を踏んでしまう。
 歴史をふりかえれば、どうしたって強欲なホモ・サピエンスに管理権が掌握されてしまうのは火を見るよりも明らかだ。だから、高度なAI管理者の完成がこの協力社会の実現には不可欠なのだ。

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