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いかりや長介

 

  

 「顔が変だよ」 
 「そう?美人が台無し?」
 幼稚園年長組の次男は素直に、丸い顔で私を見上げながら「うん」と答えた。
 私の下唇は、いかりや長介さんのように大きく腫れている。
 その二週間ほど前、舌先が下唇に触れた時、プツッとかすかな違和感があった。鏡の前でベロッと下唇を両手でめくってみると、左側に赤い小さなふくらみがある。
 痛くも痒くもないので、気にも留めていなかったが、数日すると米粒くらいの大きさに盛り上がってきた。
 それでも、そのうちに元に戻るだろうと楽観視していたら、どんどん大きくなって大豆ほどの大きさになった。
 それでも痛くも痒くもない。
 ただ、唇が重い。発音もおっくうだ。
 舌先に触れるコリコリ感がおもしろくて、ついつい舌を当ててしまう。そのせいかどうか、大豆はどんどん成長して、下唇の変形は、明らかに人目につくようになってしまった。
 最初は「しゃべり過ぎてバチが当たったんだろ」と笑っていた夫も、医者に診てもらった方がいいと言い出した。
 それにしても、顔というのは、ほんの数ミリの変化でこんなに違ってしまうのかと、じっと顔を見る。
 下唇の左半分が、こんもりと盛り上がっている。間の抜けた顔がおかしくて笑うと、もっとおかしな顔になる。
 人様に分からないようにと、上唇で下唇を覆ってみる。もっと間抜けだ。隣で息子が真似をしている。猿のようだ。
 会う人ごとに笑われるようになって、やっと病院に行く決心をした。
 皮膚科の医師は、にこにこ笑いながら、
「切って、取りましょう」と言った。
「切らないとダメですか?」
「そうですね」
「何でこんなものが、こんな所にできたんでしょうか?」
「珍しいですが、ないこともないですよ」
「夫は、しゃべり過ぎのせいとか、食べ過ぎのせいだとか言うんです」
 医師の横に立っている看護師が声をあげて笑った。
 抗う間もなく、麻酔注射が唇に討たれ、よく切れそうなメスが目の前に迫った。
 あっという間に大豆は取り出された。縫合が済んで、唇に絆創膏が貼られ、トレイに載った大豆を見せられた。
「あだっ、ひろいんれすね。ひんふみはい」(訳 あらっ、白いんですね。真珠みたい。)
 麻酔に効いた口で思わず言うと、医師は、
「悪いものではないと思いますが、一応検査に出しておきます」
と、カルテに何か書きながら横顔のままで言った。
「またこんな真珠が唇にできることがあるんでしょうか?」と不明瞭な発音ながら問うと、
「まあ、多分無いでしょう。もう、来なくてもいいと思いますよ」
 椅子を廻して、正面の顔を見せて医師は言った。
「あひがほうごらいあひは」(ありがとうございました)
 次男を幼稚園に迎えに行くと、夕間暮れの砂場で、年中組の女の子と座っていた。
 私の姿に気づいたのか、ピョンと立ち上がって、三頭身の体を転がすような勢いで走って来る。
「あらいああ」(ただいまあ)
 砂と太陽の匂いのかたまりを胸に抱き止めながら、いかりや長介の顔、写真に撮っておけばよかったと後悔していた。