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ゴーストタウンを新しいまちに変えた、エリア価値を高める物語エリア再生/問屋町(2017年掲載事例記事)

※本記事は、弊社旧ウェブサイト(rerererenovation!)からの移行記事です。2017.1.19に制作/更新されたもので、登場する人や場所の情報は、インタビュー当時のものです。



問屋町ってどんなところ?

問屋町は岡山駅から車で約15分のところにあるエリアで、約13haの地区には約50の卸売業者のオフィスと60以上の小売店が入居。おしゃれなカフェや雑貨店、ファッションが並び、多くのクリエイターも事務所を構えるクリエイティブなスポットとして注目を集めています。

エリアの歴史は1968年より問屋業のまちとしてはじまります。最盛期では繊維業者を中心に86社が軒を連ねていました。それから32年、小売業の流通形態の変化から卸業は衰退、問屋町でも廃業が相次ぎます。

絵に描いたような地方の栄枯盛衰を経た問屋町ですが、地元の若者を中心にまち全体をリノベーションすることで新しい価値を生み出して衰退から再生へ舵をきりました。

まるでアメリカ・ポートランドのような雰囲気を醸し出すストリート。トレンドが集まることで問屋町の風景ががらりと変わった
問屋町のランドマークビルのひとつ「tile Bldg」。1Fは岡山発祥のカフェ「ONSAYA COFFEE」、2Fは全国展開するインテリアショップ「ACTUS」、そして3Fはシェアオフィスフロアになっており、その一角に明石さんのオフィスが入居している(写真撮影:すべてアサイアサミ)


問屋町ができるまでのストーリー

STEP 01 こんな場所から始まった

衰退するまち。
でもそこには広い道と広い空があった

問屋業のまちだった背景から大きなトラックやコンテナが通れるように道幅が広くつくられているため、海外のような開放感があるのが魅力のひとつ(写真撮影:アサイアサミ)


明石さんが問屋町再生に関わりはじめたのは2004年のこと。問屋町を支えた卸業が衰退によって廃業・撤退する業者が続出し、各社1階のショールームのシャッターが軒並みならび、まちは昼間でも、しんと静かでした。売られた土地にはマンションが立ち並び、再開発の話も出るなど問屋町は揺れ動いていました。
転機は2003年の11月、きっかけは1つのビル。そのビルは、ビルオーナーが趣味で屋上に本物の飛行機がある、一風変わったものでした。その存在感に魅力を感じた地元の若者たちは周囲でカフェを開業するなど、まちが動き始めます。明石さんが尊敬する先輩が、ビルの2Fに自らが運営するグラフィック会社の事務所を構え、漠然と「クリエイターが集まるまち」というまちの輪郭を見出していました。
「先輩に『お前もなにかここでやれば?手伝えよ』と声をかけていただき、2003年からちょくちょく問屋町に遊びにいくようになりました」。グラフィックデザイナーとして平面のものづくりをしていた明石さんはまちづくりという立体的なものに憧れがあったと当時を振り返ります。クリエイターとしての欲求と興味からまちへダイブしましたが、衰退したまちを新しいまちへつくりかえていくことの難しさを思い知ることになります。


STEP 02 計画を練る

「ここにしかない、ここならではのまち」の
グランドデザインとは

株式会社レイデックス代表の明石卓巳さん。背景のアートは明石さんの思い描くクリエイティブをアーティストに表現してもらったグラフィック


停滞していたまちが動き出してからの数年間は、正直、暗黒の時代だったと明石さんは苦笑いをこぼしながら言います。「最初のうちは問屋町の理事会と喧嘩してばかりいましたね。問屋町を新しいまちにしていくことになかなか共感してもらえないジレンマに泣かされました」。各々の立場の中での意見交換は予想以上にハードルが高いものです。
試行錯誤の中で、明石さんはふと自分の本業であるデザインのメソッドを思い出します。デザイナーはクライアントのミッションを遂行するために着地点を決めてグラフィックに落とし込みます。そして世の中のひとたちに伝わりやすいコンテンツにしてプレゼンするのです。「同じように考えたら、まちがつくれるんじゃないか」
そこで明石さんは、賛同者を募り、まちのグランドデザインを描くことをはじめました。ここにしかない、ここならではのまちを形づくるためにまちの魅力を掘り起こす。そして20年後、ここがどんなまちになっているか具体的にゴールを描く。「200店舗出店があるまちにする」「岡山でかっこいいものを探すとき、訪れたいまちにする」、すなわち、今ないものをつくれるまちになるということです。そのために明石さんは戦略的ポイントを打ち出します。


STEP 03 事業戦略をたてる

ゴールを定める
3つの「アンカー」をまちに打つ

問屋町再生の兆しとなったビル「K’s TERRACE」。屋根の上の飛行機(本物!)が目印
倉庫街と化していた問屋町にはじめてできたカフェが「cafe.the market mai mai」。「オープン当時は、問屋町にカフェができたよ!喫茶店じゃなくてカフェが!と興奮しましたよ」と明石さんは笑う(写真撮影:すべてアサイアサミ)


問屋町のグランドデザインは「ないものをつくるまち」になることです。描いたゴールに向かうためのコンテンツを想像して、まちに「アンカー」を打ちます。アンカーとは、20年後をひとつのゴールとして線引きして、そのとき一番中心になっているであろうランドマークや象徴になるようなものを、まちづくりの最初の時点でまちに配置する点のこと。アンカーを打つことで、問屋町の未来を指し示します。
明石さんが問屋町に打ったアンカーは3つ。まずは、岡山県倉敷市児島に拠点を置くアパレルブランド「Johnbull」を問屋町に誘致しました。
「先ず岡山らしいお店が良いと思いました。そこで、『Johnbull』の社長さんに出店をお願いしました。ただの出店では意味がないので、問屋町の構想などを話しつつ、『僕、20年後、問屋町をこんな風にしたいです。社長は20年後、なにをしたいですか?』と伺いました。そうしたら『今は洋服屋だけど、音楽も好きだし、イベントも好きだし、本も好きだし、お店で全部楽しめるようになったらいいなぁ』って。だから僕は『いまそれをやりませんか!』ってお誘いました」
問屋町のグランドデザインに共感した「Johnbull」は、2004年に「Johnbull Private labo Okayama」を問屋町にオープン。2016年現在でこそ、ライフスタイル提案型のアパレル店はめずらしくありませんが、2004年、そして岡山という土地では、まさに未来を感じさせるアンカーでした。


STEP 04 実践する

アンカーを打つと、
まちの新たな価値観が生まれる

「BALANCE OKAYAMA」は、1999年、中目黒で「balanceweardesign(バランスウェアデザイン)」としてスタート。デニムで世界的に有名な岡山発のストリートブランドとして有名になった「bal」の発祥。感度の高いストリートアイテムが揃う(写真撮影:アサイアサミ)


もうひとつのアンカーは同じくアパレルの「BALANCE OKAYAMA」。岡山の名を全国に轟かせたカリスマブランドを口説いて口説いてお願いし倒して、結果、問屋町への事務所移転&出店が叶ったそう。グランドデザインに共感して、趣旨も理解してもらった。けれども「BALANCE OKAYAMA」を誘致できた決め手は金銭面でした。地価の安い問屋町では、事務所や店舗を持つランニングコストが低く抑えられ、ビジネス的に有利であるということが後押しになります。その発見も明石さんはエリアの魅力を掘り起こしたと考えています。
「数字の落とし込みで納得してもらえたことが大きかった。数字の部分の帳尻をあわせるためにビルオーナーさんとの交渉も一緒に行きました。リスクを負ってここに来てくれという話を思いだけでするのではなく、定量的な話で旨みを感じてもらえるように数字も整えます。数字は、自分の思いを説明する共有言語になるんだな、と、この一件で学びました」と明石さん。
ビジネスである以上、夢だけで人は動けません。出店や移転する側も相応のリスクを背負います。それでも問屋町に来てくれた人々と向き合ううえで明石さんが心がけたことは「嘘をつかないこと」だといいます。
「問屋町にアンカーを打ったあとの7年間、困難も多くて何度もやめようと思った。本当に長かった。それでも7年間がんばれたのはリスクを負って来てくれた人たちに対しての責任を感じていたから。彼らにも何度も『明石さん、やめないよね?』って確認されて(笑)。彼らがここに来たことを無駄にはしない、という責任感だけでがんばってきました」


STEP 05 いよいよリノベーション

これが問屋町リノベーションの原点。
空き物件をコンバージョンする

「BOOTH BLD SOUTH WIND」。もともとのデザインを生かした現代に生きるリノベーションを施して価値を高めた(写真撮影:アサイアサミ)


明石さんは3つ目のアンカーを打つために、まちのニーズを洗い出しました。調べたところ、小さなオフィスの需要が少なからずありそうだと気がつきます。しかし問屋町は倉庫街でもあったので建物ひとつひとつが大きく、大企業でなければ必要のない広さのビルばかり。家賃も高い。これでは小商い的起業にはハードルが高く、クリエイターはなかなか独立できません。
誰かがリスクを背負って多額の家賃を払い、シェアオフィス運営できるかといえばなかなか難しいと言わざるを得ません。ならば、ビルオーナーにシェアオフィスとして使えるように直して賃貸してもらうほかありません。
「3つ目のアンカーとなった『サプルビル』は、僕のその考え方に共感してくれたビルオーナーです。ビルオーナーが『区分けして貸したら何年で投資回収できるんだ?』って訊いてきました。やった!と思いましたね。空きビルをリフォームで区分けして貸し出したら、駆け出しの事業者にも門戸を開くことができるし、エリアの価値を上げることになる。そこは今のリノベーションスクールの概念にも通じている気がします。この案件が一番『リノベーション』らしい話ですね」
リノベーションらしいのはコンバージョン、つまり、より有効な形に転換するところだと明石さん。コンセプトによってシェアするという発想は当時の岡山ではまったくありませんでした。
「ビル一棟貸しをして月100万円の家賃収入であったところを小分けにすることで250万円の収益になるということを目の当たりにして、これはビジネスになると思いました。貸す側のビルオーナーとしても旨味を感じてもらえる。ここができるまで問屋町のまちづくりに関して、僕はほぼボランティアで関わっていたのですが、はじめてビジネスになりそうだと思った瞬間でした」
アンカーのひとつ目、ふたつ目はリーシング(テナント付けを行い、仲介業務を行うこと)でしたが、コンテンツが多い都会とは違い、地域の魅力あるブランドの出店はいつか頭打ちになると考えていただけに、リノベーションから価値をもたらす3つ目のアンカーは、明石さんの活動を持続可能なものにしました。持続可能であること、それもまちづくりの大事な要素のひとつです。


STEP 06 社会課題を一つひとつ丁寧に解決する

共感を生む行動を地道に続けることが
まちを変えていく

問屋町で人気のフルーツ店「おまち堂&FRUTAS」。夏はかき氷を食べに来る若者たちで賑わう(写真提供:明石拓巳)


エリアの価値を高めるストーリーのもと、アンカーを打ち、点と点を線で結び、面をつくっていくなかで明石さんはあることに気がつきます。
「アンカーを目指して問屋町に来る人をターゲットにした商売が周囲で派生する、それがマグネット(引き寄せ)なのですが、まちへ的確に打ったはずのアンカーからそのマグネットが起こらない。調査してわかったのは、アンカーを打った後も、問屋町のビルオーナーが店子へ貸し渋りをしているという現実でした。問屋町には空き家が溢れかえっているのに商売できる物件がなかったのです」
その原因は、エリアの居場所を所有するビルオーナーに共感を取り付けることが後回しになっていたことだといいます。
「活用しきれていないビルはたくさん空いているから、貸してくれるだろうという気持ちがどこかにありました。アンカーとして立てた3軒が事業として動きはじめて、家賃収入も得られる事例をつくった矢先だったのでショックでした」
まちはひとの集合体である以上、ひととひとの距離を意識して暮らしを営んでいます。それからというもの、明石さんはグランドデザインをまちの理事会へ地道に訴え続けました。問屋町のビル一つひとつに「貸しませんか?」「この場所をこんな風に変えていきませんか」「あなたの商売の新しい企画をさせてもらえませんか」「卸しだけではなく、メーカーになりませんか」、もはやビルの賃貸とは関係のない話まで提案するように。その作業は明石さんが問屋町に携わった2004年から現在も継続しています。
「理解できないことでも一つひとつこなしていく、これはもうどうすればいいんだろうってことがめちゃくちゃあった。つまらないけど、解決方法は『がんばる』、以上、ですね。どんなに理解不能な問題が山積しても、あきらめないことに尽きます。まぁ僕が広げた風呂敷なんですけれど(笑)」
共感を生む行動を見せるのが一番早いと明石さん。地元民にまちの賑わいを見せることを心がけます。そして、若者たちがこのまちのために動こうとしていることを見える化します。まちの掃除を積極的に行い、イベントでは若者がテントを立てる手伝いをする。今は問屋町のカフェや飲食店、雑貨、洋服店、エステ、美容室など有志のテナントが集まる『問屋町テナント会』がその活動を引き継いでまちを盛り上げています。
岡山の片隅のゴーストタウンがたった10年で賑やかでかっこいいエリアになるなんて、誰も、桃太郎も想像できなかったに違いありません。明石さんは魔法使いではありません。「駅近」、「都会」、「商圏」など、わかりやすいワードを持ち合わせいない地域でも、そのエリアで感じた魅力を信じて伝えること。そして、地元民も余所者も一緒にまちの汗をかいて、まちへの愛を表現すること。その地道な積み重ねが新しいまちをつくりました。
「どんなスキルを持っていたらそんな風にまちをつくれますか?」と尋ねたら、明石さんは「これは僕の性根という他ないね。絶対に諦めないの」と笑顔。みんなから岡山の兄貴と慕われる彼らしい、大事なキーワードをいただきました。

(Writer アサイアサミ)