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なぜ人は難しくモノを書くのか

僕は小さい頃、読書が嫌いでした。得意でないわけでもなく、好きでないわけでもなく、苦手というわけでもなく、嫌いだったんです。多動症で読書に集中できなかったというわけでもありません。どちらかというとのめり込んでしまうタイプなので、集中しすぎて気付いたら2時間経っていたなんてこともザラ。文字がびっしり書いてある本を見ると頭が痛くなってきて、文字の密度(1ページあたりにどれくらい文字が書かれてるか)で読む本を決めていたくらいです。だから読書家の人は素直にすごいなぁと思います。夏休みの宿題の定番だった読書感想文なんて憂鬱で、2年前に書いたのと同じ本について書くなんてこともしてましたね。

嫌いだった大きな理由はいたってシンプル。理解できなかったから。僕には難しくて頭の理解が追いつかなくて、うんざりしていたんですね。嫌いでした。でもこれってたぶん人間的に自然のことで、理解できないものを嫌いがちだと思うんです。地動説を唱えたら、異端だと非難されていた人がいたよいうに。「わからない=怪しいもの」と結びつけがちな時ってありますよね。

今でさえ5教科の中では国語と算数が特に大切なのかなと思えるのですが、当時は読書の時間なんてなくなってしまえばいいって思ってました。僕は一浪して大学に入学したのですが、現役の時のセンター試験の国語なんかはたしか50%切ってましたね。あれは最悪でしたね。僕はイライラしてました。難しくてわかんなくて。何で難しくモノを書くんだろうって。

新しい知恵であったり、新しい価値観なんてみんなで共有すればいいはずなのに、わざと?難しい言葉を使ってわからなくして、一部の理解力のある人としか共有しない。何でだろう。不思議で不思議でたまりませんでした。いまだに長年の疑問です。

今となっては「嫌い」から「好きではない」くらいにはなったのですが、唯一好きな人がいます。松浦弥太郎さんです。意外と知らない人もいるようで、ぜひ読んでほしいなと思います。2年前、6月半ばにスウェーデンから帰国して3ヶ月半くらいのながーい夏休みがありました。何か始めようと思ってたまたま手に取ったのが、弥太郎さんの本でした。スイスイ読めて、1日に2冊読むことなんかもあったくらい。圧倒的にわかりやすいんですよね。難しい言葉は一切使わない。語りかけるように書かれていて、おまけにその考え方がすごく好きでした。なるほど、読書って「対話」なんだって思いました。弥太郎さんの本はほとんど読み尽くしました。読んできた中で印象的な言葉たちをノートにまとめてあります。いつかどこかでシェアできればなあと思っています。

どの本のジャンルにしても読者が理解できないものはダメだなと思います。それはブログにしろ、学術本にしろジャンルを問わず。それってどんな目的で書いているの?って思ってしまいます。できれば子どもでも理解できるくらいの易しさ。そういう優しさを持って書ける人ってあんまりいない気がします。人類の最大の発明は言葉だとよく言われるくらいなので、目に見えない言葉を文字に変換して見える形で保存できるってすごいですよね。だからこそ、その言葉に思いやりをのせていろんな人に届けることができれば、もっと色んなものを共有できるのかなと思います。

少なくとも、ウェブメディアで何か新しいことを発信する身として、わかりやすさ命で書いていきたいなと思いました。できれば読んでくれる人と「対話」できる形で。


今回の一枚。以前天気のいい日に街で撮った時の写真です。寮から街までは少し離れているので、気分転換に週一くらいでコンスタントに行きたいです。夕方(と言っても8時くらい)のレスラン前での一枚。ノルウェーに限らず、ヨーロッパに行くとこんなオープンなお店はよく見かけます。やっぱり有名な建物を取るよりもこういう二度とない瞬間を収める方が良いですね。

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