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第六章 苦行楽行十二年*①

〇頻婆娑羅王(びんばしゃらおう)との出逢い*② 

 太子は二大仙人に逢うため、恒河(ガンジス川)を渡り、摩伽陀国の首都王舎城に入りました。城に入ると太子の気品ある容貌は民衆の評判となり、頻婆娑羅王までその噂は達しました。早速王は大臣たちに尋ねました。
「これはなんの騒ぎだ」
 大臣が答えて言いました。
「今、浄飯王の嗣子悉達太子が来ています。占い師によると国王の後を継ぐと転輪聖王となって四天下を支配し、出家すれば必ず一切種智を得ると言われています。その太子がこの城に入りました。民衆は一目見ようと大騒ぎになってます」
 頻婆娑羅王はそのことを聞いて嬉しくなり、側近の者に太子の修行場所を探させました。太子は般荼婆山(はんだばせん)の大きな石の上で端座し瞑想していました。
 王は護衛の者を止め、装飾品を外して太子に尋ねました。
「太子、体調はいかがですか?私は太子にお目にかかれて大変感動しています。しかし、少し愁いもあります。太子は甘蔗王(かんしょおう)を始祖とする日種族の伝統ある王族です。いずれ転輪聖王となるのを約束されているはずです。太子を見れば転輪聖王となる相を具えていらっしゃるのに、どうしてそれを捨てて遠路はるばる砂埃をあげ、この深山に入ってこられたのですか?浄飯王の王位継承を待てず、転輪聖王になれなくてこの地に来られたのならば、この摩伽陀国の半分の国土を差し上げましょう。それでも少ないとお思いなら、私が王位を譲ってあなたに大臣とし仕えましょう。もしそれがお気に入らないならば、軍隊を進呈いたしましょう。太子自ら他国を征伐して、国土を統治して下さい。太子の思うままになされたらと思います」
「頻婆娑羅王よ、あなたは月種族の伝統ある王家です。私への気遣いはほどほどにして、体と命と財を大事にして下さい。三堅法といって、永遠不変の真実の体と、完全な智慧の命と、さとりの財宝を修めるのが王族の役目です。私はすでに転輪聖王の位になることを捨てました。どうしてあなたの国を頂くことができようか。またどうして他国を兵力で征服できようか。私が父母と別れ剃髪し出家したのは、生老病死の苦を滅せんがためです。五欲のためではありません。世間は五欲の炎で燃え盛り、庶民たちはその炎に焼かれ、そこから逃れることはできません。どうしてその五欲に貪著させようとするのですか。今私がこの地に至ったのは、二大仙人の阿羅邏仙人と迦蘭仙人に会いに行くためです。彼らは解脱を追求する最上の導師です。彼らの所に行って解脱を得ようと思っています。ここに永く滞在するわけにはいきません。王様のご好意をお断りして、どうか恨まないで下さい。王様、人民を まがった道に勧めることなく、正法をもって国を治めて下さい」
 太子はそう言って座から立ち上がり、頻婆娑羅王から去って行きました。
 王は太子が去って行く後ろ姿を見ながら言いました。
「太子、大いなる解脱の為に去っていくならば停めることはいたしません。ただただ解脱が成就することを願います。そして、もしその道が成せば、まず最初には私を済度したまえ」と。
 王はひどく落ち込みながらも合掌し、太子が見えなくなるまで見送りました*③。


〇跋伽(ばつが)仙人

 
太子は、檀特山行く途中の緑溢れる修行の森にやってきました。そこには跋伽仙人をはじめ色々な修行者達がいました。その者達の格好は樹木の皮をもって衣類とする者、あるいはその葉っぱをもって衣類とする者達でした。彼らはその果実や木の皮を食べていました。ある者は一日一食や二日で一食。また食欲を我慢して自ら飢餓状態に陥る者もいました。そして足を挙げて何日も降ろさない者、あるいは地面に伏したままの者、またわざわざ棘ある樹木の上に伏したままの者、水に浸かったままの者達等がいました。
 太子は跋伽仙人にこの修行者達のことを尋ねました。
「彼らは苦行しているが、甚だ奇特な修行である。どのような果報を望んでそのような苦行をしているですか?」
 跋伽仙人は答えました。
「天に生まれるためにそのような苦行をしています」
 太子はまた尋ねました。
「諸天に生まれるのは楽しいでしょう。しかしそこでの福が尽きてしまえばまた六道に輪廻し、苦の集まりへ舞い戻ってしまう。あなた達は苦しい事をして、苦しい報いを求めているのではないですか?」
 跋伽仙人は少し気分を害して太子に答えました。
「我々の行っている修行は真に正しいものではないというのですか?」
 すると太子は、
「あなた達の行っている修行は苦しみの追求ではないでしょう。しかし、その求める結果や報いは苦を離れるものではない」と言い切りました。
 太子は跋伽仙人をはじめ他の仙人達とそのような議論を交わし、とうとう日没になってしまいました。太子はこの園林に宿し、夜が明けてつくづく思いました。
「ここの仙人達は苦行を修するとはいえ、皆本当の解脱の道ではない。私は今このような所に留まっているわけにはいかない」
 仙人達に別れを告げようと思っていた時、ある仙人が近づいてきて言いました。
「あなたがここに来た時、仙人の誰もがその威徳の備わった振る舞いをみて歓喜しました。どうしてここをすぐに立ち去ろうというのですか?我々の威儀を欠いた態度のためなのですか。それとも相争って議論したためなのですか。どういう因縁でここの場所を去ろうというのですか?」
 すると太子は、
「いや、威儀を欠いたのではなく、むしろ賓客としてもてなしていただいた。ただ、あなたたちの修行は苦というものを増長するばかりです。わたしが今求めているのは苦の元を断ずる修行で、求めるものが違うのでこの場所を去りたいのです」と答えました。
 その時ある仙人が他の仙人達に言いました。
「あの若い求道者は、表情や振る舞いなどすべてにおいて威徳が備わっている。きっと彼は一切種智を得て、天人の師となるであろう」
 そして仙人達はそろって太子の所へ行き、言いました。
「あなたと我々とは修行する目的が違います。あえてあなたを引き停めることはしません。もしここから去ろうと思うなら、檀特山の奥深く北の方へ行けばいいでしょう。そこには大仙人がいます。阿羅邏(あらら)仙人と迦蘭(からん)仙人です。あなたはその大仙人と大いに議論をすればいいでしょう。しかし私が思うのには、その大仙人達の所にもそれほど留まることなく、必ずや去って行ってしまうでしょう」
 太子は大仙人のことを聞き、北の方へ行きました。仙人達は太子が去って行くのを見て、言い知れぬ寂しさを感じながらも合掌して見えなくなるまで見送りました*④。

〇浄飯王の遣い

 その頃、迦毘羅衛国では太子が出家してしまったので大変な騒ぎになっていました。早速、浄飯王は車匿から聞き出した跋伽仙人がいる苦行林へ、王師(浄飯王の指南役である婆羅門)と大臣を遣わせました。
 王師と大臣は苦行林の入り口に至り、一緒に伴ってきた随行者を止め、身にまとっている装飾品を外し、跋伽仙人と対面しました。
 王師は「私は浄飯王の指南役である。優れた容貌の迦毘羅衛国の太子は生老病死の苦を厭い出家し、この苦行林に来ているはずだが、跋伽仙人あなたは太子は見かけましたか?」と問いました。
 すると仙人は「つい最近、容姿端麗な若造がここへ来て、私と議論を交わしました。しかも一晩をかけて議論しました。その若者が太子なのかどうなのか?われわれの修行を浅はかな行とみなし、阿羅邏仙人と迦蘭仙人を訪ねて北の方へ去っていたと聞いています」と答えました。
 王師と大臣はそのことを聞くや否や、阿羅邏仙人と迦蘭仙人のところへ向かいました。その途中で、遥か彼方の樹の下で太子が端座思惟しているのを見ました。早速、馬を降り随行者を止め、太子のところへうかがい、地面に伏して尋ねました。
「浄飯王が太子を探していらっしゃいます。どうして出家されたのですか?」
 すると太子は、
「父王はあなたをはるばる遣わして、どうしたいと言っているのか?」と聞き返しました。
「大王は太子が出家に強い想いがあり、ひるがえらないこともご存じです。しかし大王は太子に対する愛情ははなはだ深く、しかも今は太子がいない日々を憂鬱に送っておられます。大王の憔悴は目に余るものがあります。どうか太子、お願いですからご帰城下さいませ。太子の思うところは帰ってからもできます。なにも瞑想は山林でしかできないことはありません。養母の摩訶波闍波提や耶輸多羅妃をはじめ城の内外の者たち、みんな悲しんでおられます。どうか太子、帰城されてその者たちの悲しみをお救い下さいませ」
 その時太子は大王の話を聞き、深呼吸をして低い声で答えました。
「私は父王の愛情がどれだけのものか、一番よく知っています。ただ生老病死の苦を除くためにここへ来ました。もし帰城して恩や愛というものにまみれたなら、永遠にこの苦を断ち切ることはできないのです。父王と私を隔てるたった一つのものは、この苦だけなのです。どうして私を帰らして、学道を修行させるというのか?私はここの寂静なるところで苦を断ち切りたいのです。往古の諸の聖仙たちも、みんな静寂なる苦行林に入って欲を断ち切ってきました。もし父王の命にしたがって帰ったなら、聖仙たちのように欲を断ち切って苦から離れることはできなでしょう」
 王師はまた問いました。
「まことに太子の言う通りです。しかし、聖仙たちが言うのには、一つは未来に果報がありといい、また一方ではそれは定まったものではないといいます。太子が訪ねようとしている阿羅邏仙人と迦蘭仙人も、未来世において果報が必ず定まったものかどうか、それを知ることはできないでしょう。太子はどうして、現在の果報を棄てて未来にあるかないかの果報を求めようとするのですか?今現在の生死という果報もなお決定的なものかどうかわかりません。どうしてそのわからいなものからの解脱という果を求めようとするのですか?ただただお願いですから、お城に帰っていただきたい」
 太子はおもむろに答えました。
「彼ら二人の聖仙は、未来の果を説くに一つは有りといい一つには無しということ、そのものが疑いの心だとします。定まった説とはしません。私は過去の聖仙のいうような説にくみしません。そのよう拙論によって難詰しょうとしてはいけません。なぜなら、私は今現在の果報を求めるためにここに来たのではありません。現前の生老病死苦をどうにしかして免れるためにここに到ったのです。あなた王師は、それほど年月がたたないうちに私が道をなすのを見るでしょう。私の初志は堅く翻ることはないのです。それを帰って父王に申してください」
 太子はそのことを言って座より立ち上がり、王師と大臣に一礼して阿羅邏仙人と迦蘭仙人のいる北の方へと向かいました。
 王師と大臣は太子が去っていくのを見て、跪いてほろほろと泣きました。浄飯王にどうのように伝えようかと二人で思案に暮れました。そして傍らにいる随行者をみて思いつきました。聰明で殊勝で忠実な彼らを太子の成道のようすの看視役として随行するよう命じました。
 指名された阿若憍陳如(あにゃきょうじんにょ)等の五人は、
「かしこまりました。勅命のごとく太子の修道の進捗を伺察いたします」と答え、太子の後を追いました。それを見て王師と大臣は迦毘羅衛城に帰っていきました*⑤。


〇阿羅邏仙人と迦蘭仙人

 太子は遥か北へと進み、時間をかけて檀特山の奥深くへやってきました。そこには聖仙阿羅邏仙人が修行をしていました。諸天は、阿羅邏仙人に語りかけました。
「菩薩悉達太子が、釈迦国を捨てて父王と別れて、無上正真の道を求めてこちらまで来てします。一切衆生の苦を抜くために今この地に至らんとしてしています」
 大仙人は、その諸天の声を聞いて大いに悦びました。そうこうしているうちに、太子が遥か彼方に姿を現しました。大仙人は馳せ参じて迎えに行きました。「よく来られました」と言って修行している場所まで太子を連れて行き、そこに座ってもらいました。
 その時大仙人は太子の容姿を見て、その端正な佇まい、威儀ある立ち振る舞い、虚静恬淡なる雰囲気にひどく好感を持ちました。そしてさっそく尋ねました。
「ここまでの険しい道のり、疲れることなかったですか。太子は出家して生れた故郷の国を離れ、やっとの思いでここに至ったのは存じております。よく煩悩の炎から逃れられました。それはまるで、巨像が獣の罠から脱出するのと同じようなものです。古の王達は青年時代には大いに五欲を貪り、晩年になって国や財宝を捨てて出家し修道へとはいってきました。それは当然のことと言えます。太子は、まだ若いうちに五欲を捨てて、遥か遠いこのところまでやってきました。これはとても殊勝なことです。精進して速やかに彼岸へと到るでしょう」
 太子はそれを聞き、大仙人に答えました。
「あなたの言葉を聞いて、大変感動しています。どうか私に生老病死を断じる法を説いてください。私はどうしてもその事が聞きたいのです」
 大仙人は「それは素晴らしい。わかりました」と答えました。
 太子は弟子入りして、大仙人と共に瞑想の日々を送りました。
 ある時大仙人は太子に説きました。
「衆生の始まりは冥初に始まる。冥初より我慢が起こり、我慢より癡心が生れ、癡心より染愛が生じ、染愛より五微塵気(色・声・香・味・触)を生じ、五微塵気より五大(地・水・火・風・空)を生じ、五大より貪欲・瞋恚等の諸煩悩を生じ、こういうわけで流転し、生老病死の苦に悩まされるのです。今太子のためにそのことを略して説きました」
 太子は大仙人に問いました。
「あなたの言う生死の根本はわかりました。それをどのような手だてで断ち切るのですか?」
「まず出家し、戒を持ち、謙遜の心を持ち、すべてにおいて耐え忍び、静かな所で禅定を修しなければならい。そこでは、欲望や不善のものから離れ、心を観て覚り第一禅に入る。心を観ることもなく禅定だけで喜心に入り第二禅を得ます。その喜心を捨て正念を得れば、妙楽地を得て第三禅を得ます。その念を捨てて清涼地に入り第四禅を得ます。ここまでくれば無想天に入り、このところを解脱といいます。その上は色想を離れて空処に入る空無辺処地にのぼり、有対想を滅して識無辺処地に入る。そして無量の識想を滅して、唯一の識を感じて無所有処定に入ります。その種々の想も離れたなら、最終の非想非非想処定に入ります。これを究竟の解脱といいます。このところは諸々の修行者達がめざしたところです。もし太子が生老病死の患いを断じたいならば、まさにこの禅定を修学すべきです」
 大仙人はそう太子に答えました。
 太子はそれを淡々と聞いてました。「それは究極の処ではない。そこでは諸々の煩悩を断ずることはできない。理解しがたいところがある」と思いながら、大仙人にまた尋ねました。
「そうだとしたら非想非非想処に『我』はあるのですか?ないのですか?もし『我』がないというならば、想わない、想わないこと想わない、こともできない。つまり非想非非想処定とはいえない。もし『我』あるというなら、『我』は知なのか?そうでないのか?もし知でないならただの石ころにすぎない。もし知であるというなら『我』は外なる存在との間に生じる境であり、それならばそれは執着であり、執着であるならばそれを解脱とは言わない。あなたは大雑把に結論づけるが、思惟を尽くしているとは言い難い。なので究竟の解脱とは言えない。解脱でないならあなたは生まれ変わるだろう*⑥。そういう意味で彼岸へ渡り得るとは言えない。もし、『我』及び『我』に対する執着を一切合切悉く捨ててしまえば、それを真の解脱というのです」
 大仙人は「太子の説くところはまことに絶妙だ」と思いつつ、黙り込んでしまいました。
 太子はまた大仙人に尋ねました。
「あなたは何歳で出家し、修行して何年になりますか?」
「私は十六歳で出家し、浄行を修めてかれこれ百四年になります」
 太子はそのことを聞き「出家以来そんなに長い年月が経って修得したものがこの禅定なのか」と思い、もっと優れた法を求めるために座からたちあがりました。
 大仙人はその立ち上がった太子に問いました。
「私は遠い昔から苦行を実践し、修得した禅定がこの非想非非想処定です。あなたは王族の出身ですが、どうして苦行というか荒行というものをなさらないのですか?」
 太子は答えて言いました。
「大仙人あなたがなしてきた修行は苦行ではありません。ほかにもっと厳しい難行苦行の道があります」
 大仙人は太子の叡智を見抜き、また意志の堅固なるを観て、必ず一切種智を得るであろうと思いました。そして、
「太子、あなたがその道を成したならば、どうかまず最初に私を化導したまえ」と言いました。
 「よろしいでしょう」と太子は言って、同じく檀特山で修行している迦蘭大仙人*⑦の所へ向かいました。
 しばらくして聖仙迦蘭仙人と対面し、また弟子入りしました。
禅定の日々が続きましたが、ある時大仙人に先の阿羅邏仙人と同じことを質問しました。しかし、生老病死の苦を逃れる解答は得られず、問答の内容は阿羅邏仙人と大同小異で、太子は聖仙迦蘭仙人もとを去りました。
 聖仙迦蘭仙人は「太子は大変奇特な人で、智慧というもの甚だ深く測りがたいものがある」と思い、立ち去る太子が見えなくなるまで、合掌して見送りました。
 出家してからすでに五、六年の歳月が流れていました*⑧。


〇苦行の六年間

 太子は随行者五人と跋伽仙人が修行している苦行林に戻ってきました。しかし、そのうちの二人は苦行を嫌って太子と別れました*⑨。
 太子はさっそく苦行林で端座し思惟し始めました。衆生の機根を鑑みて「六年間は苦行して必ず衆生を救おう」と堅く誓いました。
 これを見ていた諸天は太子に対して、米、麦、胡麻等の穀物を供養しました。太子は浄心に戒を守り、減食による苦行*⑩に入りました。一日一食穀物のみを食べ、二日に一食、三日、五日、十日に一食。一食も徐々に量を減らし、最後には一日米一粒と胡麻一粒までに、それを二日あるい三日に一食としていきました。
 それを見ていた阿若憍陳如は一人使いを遣わし、王師と大臣にその修行の様子を報告しました。また、王師は浄飯王にそのことを伝えました。王は体が震え身の毛が立ち、大いに悲しみました。早速王は車匿を呼びつけ、食料や生活必需品を満載した千台の荷車を、遥か彼方の檀特山の苦行林へ送りつけました。
 やっとの思いでたどり着いた車匿は、太子の変わり果てた姿を見て驚愕しました。それは、お腹の皮と背中の皮が引っ付き、息をする木乃伊(ミイラ)、生きる屍でした。ただ端座したままの太子に対して車匿は、地面に頭を着けたまま、泣きながら太子に言いました。
「大王様は毎日太子様のことを心配されて眠れる日はほとんどないほどです。ここに千台の荷車の食料など、どうぞ受け取っていただきたく存じます」
「私は父母の意志に反し、国を捨ててここまでやってきたのは、道を求めんがためである。どうしてこのような兵粮を受ける取ることができようか」
 車匿はそれを聞き終わり「太子は絶対にこの資糧を受け取ることはないであろう」と思い、人を使ってこの千台の兵粮を浄飯王の居るところへ返し、自分は隠れて太子の傍に居ようと思いました*⑪。

〇牧牛女の乳粥供養

 太子は「一日米一粒胡麻一粒を食べ、七日間に米一粒胡麻一粒を食べ、体は極端に憔悴し、枯れた枝木のようになってしまった。この苦行し始めてもう六年にもなるが、未だ解脱を得ることはできない。これは本当の道ではないのではないか?青年時代の緑深い樹木の下で、世欲から離れ静寂の中で端座し思惟したころが最も真理に近づいていたのではないか?今私がこの衰弱した体で道を得たとし餓死したならば、あの諸々の仙人たちはこれこそ涅槃の因であると言うだろう。しかしながら私にはまだまだ堅固な意志はあるが、このような苦行で道を得ることはやめよう。まさに食事を取ってその後、道を成すべきだ」と思いました。
 太子は尼連禅河の辺に出て、河に入り沐浴しました。しかし体があまりにも衰弱していため河から出ることができませんでした。すると天の神々が樹木の枝をさしのべ、それに掴まってようやく河から出ることができました。
 その時でした苦行林を出たところに一人の牧牛女がいました。名前は難陀波羅(なんだばら)。すると浄居天が現れ「太子がすぐそばにいます。あなたが供養しなさい」と牧牛女に語りました。
 彼女はそれを聞いて大いに悦んだその時でした。地面より千葉の蓮華が現れ、その花の上には乳糜(にゅうび・ちちがゆ)が涌き出ていました。彼女は入れる器がなく困っていたところ、突然毘沙門天等の四天王が現れ四つの鉢を太子に差し出しました。彼女はその鉢を重ねて、中に乳糜入れて太子に献上しました*⑫。
 太子は早速それを受け取って祈願しました。
「今あなたが施すところの食事は、食べるものをして気力を増すことこの上ない。施す者は必ずや安楽にして病なく、長寿にして寿命を全うするだろう」と。続けて「我は一切の衆生を悉く救わんが為にこの食事を頂こう」と願い、その乳糜を食しました。すると、身体が見る見るうちに頑健になり、生気に満ちあふれ、菩提を受けるに堪えうる体となりました。
 阿若憍陳如ら三人は、太子が食事の施しを受け取ったことを見届け、苦行から退転したと思い、その場から去っていきました*⑬。
 


 


*①『開目抄』(定遺568頁)に「苦行楽行十二年の時、苦・空・無常・無我の理をさとり出でてこそ、外道の弟子の名をば離れさせ給いて」とある。この「楽行」は、「言葉のアヤ」で「別に楽行の二字に大した意味を認むべきではなく、十二年間色々に苦修錬行された意であろう」(『日蓮聖人遺文全集講義』九巻下388頁)とあり、あしかけ十二年間は苦行である。
 また、「楽行」内容としては「十九で出家して五年の間仙人にしたがって楽行を行じておられる。そして、六年間苦行をされて三十才で成道されておる」(茂田井教亨述『開目抄講讃上巻』304頁)とし、 「楽行」とは阿羅邏仙人と迦蘭仙人に弟子入りし、師の教授による禅定の修行と思われる。
*②『祈祷抄』(定遺675頁)「頻婆娑羅王は仏の第一の御檀那也」。
*③『過去現在因果経』(『国訳一切経』本縁部四56~58頁)。
*④『過去現在因果経』(『国訳一切経』本縁部四 47~48頁)。
*⑤『過去現在因果経』(『国訳一切経』本縁部四54~56頁)。
*⑥『四教略名目』(定遺2878~2880頁)。「サレハ外道尺虫譬也」(定遺2884)と最高の境地を覚った外道であっても、尺取虫の様に転生を繰り返すとされている。同じく『開目抄』「上界を涅槃と立て屈歩虫のごとくせめのぼれども、非想天より返て三悪道に堕。一人として天に留ものなし」(定遺537頁)とある。
*⑦一般には阿羅邏仙人が無所有処定、迦蘭仙人が非想非非想処定という禅定を修得し、この二つの禅定は仏教でも採用された。(水野弘元著『釈尊の生涯』59頁)。
*⑧『過去現在因果経』(『国訳一切経』本縁部四58~60頁)。
*⑨「十九の御年、浄飯王宮を出でさせ給ひて檀特山に入りて十二年。其間御とも(伴)の人五人なり。所謂拘鄰と穏碍と跋提と十力迦葉と拘利太子となり。此の五人も六年と申せしに二人は去りぬ。残りの三人も後の六年にすて奉りて去りぬ。但一人残り給ひてこそ仏にはならせ給ひしか」『四条金吾殿御返事』(1666頁)「二人は欲を以て浄となし、三人は苦行を以て浄となす。太子は勤めて苦行を行ず。二人はすなわちこれを捨て去る。三人は猶お侍す。太子は苦行を捨て、かえって飲食、蘇油、煖水を受くるに、三人はまた捨てる」『法華文句』(大正蔵34巻8頁)。
*⑩当時の苦行としては、イ,心を制御する苦行、ロ,呼吸を止める苦行、ハ,断食による苦行、ニ,減食による苦行があったとされる。(水野弘元著『釈尊の生涯』67頁)。
*⑪『過去現在因果経』(『国訳一切経』本縁部四61~63頁)。
*⑫『兵衛志殿女房御返事』(定遺1398頁)「釈迦仏三十の御年、仏になり始てをはし候時、牧牛女と申せし女人、乳のかい(粥)をに(煮)て仏にまいらせんとし候し程に、いれてまいらすべき器なし。毘沙門天王等の四天王、四鉢を仏にまいらせたりし、其鉢をうちかさねてかい(粥)をまいらせしに仏にはならせ給う」。
*⑬『過去現在因果経』(『国訳一切経』本縁部四63~64頁)。


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