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第七章 降魔

〇菩提樹の下

 菩薩太子*①は、菩提樹の下を見て「あの樹木の下で端座し、道が成るまでその座を起たない」と願いました。菩薩太子の徳は重く、菩提樹に向かって一歩二歩と歩くたびに地面がギシギシと大きな音をたてて四方八方に響きました。その震動で盲目の龍が目を覚まし、「これは過去の仏が悟った時と同じ兆しだ」と思い、地面より躍り出て菩薩太子に伏拝頂足しました。
 五百羽の青雀(アオガラ)が虚空より飛来し、 菩薩太子の上空を右に旋回しました。色とりどりの雲がその上を覆い、香りのいい風が辺りを漂いました。
「地面が六種に震ったことによって私の眼は開き、この瑞相はまさに過去の仏と同じく菩薩太子が正覚を成じるものである」と盲目の龍は詠じました。
「過去の仏は何を敷いて座として、正覚を悟ったのだろう?」と菩薩太子は考え、すぐに草を敷いて座となしたと知りました。
 その時帝釈天が村人に化けて現れ、その手には浄よく柔らかな草を携えていました。
 菩薩太子は「あなたのお名前は?」と尋ね、村人は「吉祥です」と答えました。菩薩太子は大いに喜び、「私は不吉を破り、吉祥と成る」と宣言し、村人からその草をもらいました。村人は「菩薩太子、道が成ればまず私を度してください」と言いました。
 菩薩太子はさっそくその草を菩提樹下に座として敷き、結跏趺坐しました。
 世間は苦であり、しかもそれは本来空である。外道が説く絶対的な存在はなく(無常)、絶対的な神はない(無我)*②という理を悟り、
「誰も師とすることなく、ただ自ら悟った智に安住しよう。過去の仏が座したときと同じように、わたしも正覚を成ずるまでこの座を絶対に起たない」と菩薩太子は堅く誓いました。
 この誓いを立てた瞬間、諸天や鬼神は大いに歓喜し、清らかな風が四方より吹きました。生きとし生きるものはすべて鳴りをひそめ、上空には満面に刷毛で塵を掃いたように筋雲が架かっていました*③。
 
 〇降魔

 その時でした。第六天の魔王が住む宮殿が大きく揺れました。魔王は非常に畏れおののき、そして察しました。
「沙門瞿曇(くどん)が樹下に端座し思惟した。もうまもなく覚りを得るだろう。そうすれば一切の衆生を救済し、我々の住む境界にも及ぶだろう。瞿曇が道を成ずる前に行って、瞑想を徹底的に乱してやろう……」と。
 魔王の息子・薩陀(さつだ)は父の憔悴している姿を見て言いました。
「父王、どうしてそんなに畏れているのですか?」
「今、沙門瞿曇が菩提樹の下で瞑想している。もう間もなく悟って我々の世界を越えてくるであろう。その前に悟りをなんとか破壊したい」と答えると魔王の息子は父王を諫めました。
「父王自ら手を下すことはなりません。沙門瞿曇に罪悪をつくらせて、道を成さないようにしましょう」
 魔王に三人の娘がいました。長女を染欲、次女を能悦人、三女を可愛楽と言いました。彼女らも父である魔王に「どうしてそんなに憂いておられるのか?」と尋ねました。
 「この世の中に今、沙門瞿曇という者がいる。体に法の鎧を着て、智慧の弓を担いで、自在にその矢を放つ。そして衆生を惑わす。これを阻止しないと我々の国土が危うくなるだろう。それで憂いてるのだ。未だ道を成す前に、なんとか妨害しょうと思う」
 直ちに魔王は弓と五本の矢を持ち、大勢の手下を連れて菩提樹に行きました。そして見たものは、三界の海をもう間もなく越えようとしてしている寂然不動の菩薩太子の姿でした。
 魔王は左手に弓をを取り、右手に矢をつがえて言いました。
「お前は刹帝利(クシャトリア)の種族だ。早くその場所から立ち上がれ。さもなくば射殺すぞ。死というものは恐ろしいものだ。転輪聖王となって世界を制覇する道を歩めばいい。瞑想をとりやめろ。施しをしたいのなら政を行ってすればいい。それでも座を立たないというならば、この矢を放つだろう。この矢のすさまじさは、過去のどんなすごい苦行仙人であろうが、その矢の飛ぶ音を聞いて畏れおののき、心が乱れて禅定をやめてしまった。お前もきっとそうなるであろう」と。
 菩薩太子は泰然自若というよりか、むしろその言葉を喜び楽しみながら聞いていました。
 魔王はすぐさま矢を放ち、三人の麗しい娘たちを差し出しました。
 その時でした。菩薩太子が飛んでくる矢をちらっと見ると、矢は空中で止まり、すっと地面に落ちて蓮華の花に変わりました。
 三人の娘たちは、菩薩太子に向かって言いました。
「あなたは、天人の方々も敬っているお徳のある方ですね。私たちは妙齢で、その天女たちも私たちには及びません。これから随時お給仕いたますので、どうか常住坐臥お側において下さい」
 「あなた方は少しの善事をなして、天女の身を得たのだろう。無常ということもわからず媚態を示し、見た目麗しいといえどもその心の中はそうでない。給仕と偽って淫らで私を惑わそうとしている。それは全く善事ではなく、命が尽きたならばまさに三悪道に堕ちるだろう。あなた方は、今私の禅定三昧を乱そうとしいる。その穢らしい心を持ったままここから立ち去りなさい」と菩薩太子は答えました。
 すると三人の娘はたちまちに髪の毛が真っ白となり、歯はすべて抜け、しわだらけの老婆となりました。そのがりがりに痩せ衰え体は自分でを支えることができず、杖をつていとぼとぼと帰っていきました。
 魔王は菩薩太子の意志堅固な姿を見て、少し情のある言葉をかけて騙そうとしました。
「沙門瞿曇よ、あなたは人間界の享楽をすべて断ち切ってたので、天界に生れるだろう。そうしたらこの天界に来れる。私はそこで食欲、財欲、色欲、名誉欲、睡眠欲を欲しいままにしてきた。その五欲自在の力をあなた与えよう」と。
「魔王!あなたは前世において少しばかりの施しをした。それが因果で欲界の第六天に昇り、自在天王(化他自在天)となった。しかしその天界にも輪廻転生はあり、必ずまた三悪道に堕ちるだろう。私を誑(たぶら)かす罪によって。もちろんその誘いは受け入れない」と菩薩太子は答えました。
 魔王は「我が施しによって天界に生れたという果報は、お前の知るところだ。ならば貴様の果報は誰が知っているというのか?」と問い詰めました。
 菩薩太子は答えました。
「私の果報は唯この大地のみ知る!」と言って右手で地面を指さしました*④。すると大地は六種に振動し、蓮華をいっぱい挿した七宝の花瓶を持った地神が突然現れ、魔王に言いました。
「菩薩太子は昔、自分の頭、眼、脳髄、身体、手足をもって人に施した。出した血は三千大千世界のありとあらゆる地面に染み込み、施した王国と城下町、妻子、象や馬、七種の宝石等は計り知れない。それは無上道を求めるためである。故に魔王よ。貴様は菩薩太子を悩ましてはならない!」と。
 魔王は畏れおののいて身の毛が逆立ち、その場を去っていきました。地神は菩薩太子の足を礼拝し、その花瓶の華を供養し突然として姿を消しました。
 しかし、魔王はあきらめず悪魔を各地から集め、軍隊を編成しました。
虚空にはその群集で溢れかえりました。そのいでたちは様々で、槍や刀、鎖や弓矢や楯などでした。その姿はいろいろな猛獣の頭を持つ者、龍や鬼や蛇や化け物の頭を持つ者、それも一つの体に二つや三つの頭を持つ者達でした。その魔の群集は菩薩太子の周りを地上から空中に至るまで取り囲みました。そして火を吹く者、狂った大音声を放つ者、立っていられない程の風を吹かす者、海の水をすべて汲み上げてまき散らす者達でした。それを見ていた護法の諸天や竜神達は、悪魔に対して怒り、血の涙を流す善神までいました。
 その中でも浄居天は、菩薩太子の禅定が乱れないかと心配し、様子を窺っていました。が、菩薩太子はまるで鹿の群れに囲まれた獅子のようで、微動だにしませんでした。
 いよいよ悪魔の軍隊は最後の攻撃に出ました。降る雨のごとく飛んでくる石や矢や剣の数々。しかし一瞬にして五色の華となって降ってきました。悪龍の口から吹かれた毒は、悉く芳しき香りの風となりました。
 魔王には二人の姉妹がいました。一人を弥伽(みが)といい、もう一人は伽利(がり)といいました。二人は手に髑髏の器を持って菩薩太子の前に現れ、淫らな踊りをして菩薩太子を惑わそうとしました。菩薩太子は毛一筋も動かすことなく、禅定に入ったままでした。
 突然、空中に負多(ふた)という鬼神が現れ、魔王に言いました。
「菩薩太子は、この様な襲撃を受けても何の怨みも懐いていない。魔王よ、お前は菩薩太子が劫を経て修得してきた正しい思惟、精進、方便、智慧を壊すことはできない。世間の衆生は三毒に溺れ、救うものはいない。ただ菩薩太子の慈悲や智慧のみがそれを救うのだ。どうしてお前はその導師を乱そうとするのか。大暗闇の中で呆然とする衆生に、智慧の大いなる燈火を灯そうとする菩薩の火をなぜ消そうとするのか。生死の海に没しようとする衆生に、智慧の宝船を浮かべようとするのに、どうして沈没させようとするのか。忍辱を芽となし、堅固を根となし、無上道を大果実となす樹木を、なぜ貴様は伐採しょうとするのか。貪り、怒り、愚かの鎖に縛られた衆生を菩薩が苦行をもって解こうとし、この菩提樹の下で結跏趺坐している。今まさに無上道をなさんとするところだ。この場所は過去の仏たちも妙なる境地を得た金剛の宝座である。貴様が邪魔することなできない神聖な場所だ。奢りの心を捨て、喜びの心をもってこれからは菩薩に使えろ!」
 魔王はこの空中に浮かんだ鬼神の声を聞き、菩薩の虚勢恬淡として結跏趺坐している姿に慚愧の心を懐きました。そして驕慢の心を捨て去って、元の第六天の宮に帰っていきました。悪魔の軍隊も総崩れになり、憂いを懐いて退散して行きました。林野にはその武器が散乱していましたが、菩薩太子の心は微動だとして動くことはありませんでした。空は晴天で雲一つなく、日が暮れれば月は煌々と、すべての星は輝きを増しました。虚空にいた諸天は妙なる花の香り降らし、諸々の音楽を奏でて菩薩である太子を供養しました*⑤。
 
 


*①これより『過去現在因果経』では太子を「菩薩」と表記。
*②「苦・空・無常・無我の理をさとり出でてこそ」『開目抄』(定遺568頁)
*③『過去現在因果経』(『国訳一切経』本縁部四64~65頁)。
*④これは降魔印とも触地印ともいう。「しかりといえども一指を挙てこれを降伏してより已来、梵天頭を傾け魔王掌を合せ」『法華取要抄』(定遺811頁)。
*⑤『過去現在因果経』(『国訳一切経』本縁部四65~70頁)。


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