見出し画像

やくざ組織の作り方

長いです。読む場合は覚悟して読んでください。およそ挫折する分量と内容になってます。


はじめに

最初に断っておくと、僕はヤクザでもなければ、コンプラが云々みたいなことを気にするつもりもなく、ただ主観的な考え方の話を書く。
タイミングや場に応じて、僕は自身の思考性および指向性を説明する際に、「やくざ的な考え方をする」とか「その世界観が好き」というような表現を使う。例として「実態は目の前の物体が白であっても、自分の信じた人が黒といえば黒と言える」みたいな極端な例を用いる。もちろん、実際にそんなことが起こることはない。僕はこれまでの人生で憧れた人や、尊敬した人からもらった話を教わった通りに(可能な範囲で)やってきた。親分についていく子分の様な感じで、人の轍を踏んで生きてきたと思う。

僕は常々自分をラッキー野郎だと思っている。お世話になってきた人たちは、分野は違えど素敵な人ばかりで、そんな方に頂いたアドバイスや激励のおかげで、僕は今の生存点にいることは間違いない。振り返ってもこの傾向(やくざ的指向)を持ってして、会った人が違ったなら、また別の人生になっただろうと、偶に思う。そして、そういった世界を生きたとて、素直にその組織や交わる人の中で、良くも悪くもある程度の生き方になっていたのではないかと思う。

いつも何か書くときは、誰かに対しての感謝の垂れ流しになることが多いが、今日は極力そういう表現は控えようと思う。ここに割く分量が圧倒的に多くなってしまう。また表現の中で「自分もできたから、あなたもできる」みたいなのが出てくるかも知れない。僕が自分の考えを言葉にまとめるときは、きっと自分の感情や考えを表現するだけに限らず、自分の好きな人・尊敬する人がやっていることに少しでも近づきたいという思いが、無意識にもであるからかなと思っている。僕の好きな人は、どんな時に、どんな言葉を使ってでも、人を励ましたり、元気にしてくれるから、そんな人たちに憧れているうちに、きっと自分の書き癖にも影響が出ているのだと勝手に理解している。が、これも今回は可能な限り削っていく。

ちょっと冒頭から誰向け?な話をした。そろそろnote全体でも経営者として書けることを、今の自分だから書けることを書いていきたいと思う。これは誰かのためにもなるかもしれないが、それ以上に今いる地点の定点観測のための自分だけの符帳みたいなものだと思う。事業立ち上げ時のnoteの文末に、「これからは事業のこと書くぜ」みたいなことを言いながら、事業状況や社名変更などの思い出チックな話しか書いてこなかったと思う。今回のnoteは自分が今何を考えたり、その何かについてどう思っていたり、なぜそう思っているのかを可能な限り書き綴っていきたい。

この数年で自分の考え方や物事の捉え方は大きく変わったと思う。とはいえ、まだまだ人生途上であることには変わりなく、また数年後に見返した時に「お前こんなこと考えてたのね。と言うか、このレベルの視座だったのね」みたいな振り返りができたらと思う。実は、noteを書き始める前に普段断片的に頭で整理したり、カミさんと議論したりする内容を、2hほど手元の裏紙に殴り書いてみた。村上龍のエッセイではないが、一つ一つの短編ごとに結論紛いの着地を持って話をしている普段と比べて、各論をつなぎ合わせようとすると、どうも難しい。結局、結論めいたものを作ることもできなかったので、本当に犬のマーキング程度の内容となりそうだ。

仕事は何のためか

最近自分に投げかける問い。前のnoteでは「仕事は俺の趣味」と言う表現を使った。これは今もそう思っているし、そう思うようにしている。では、何が嬉しくてその趣味を行うのか。今の自分の答えとしては「哲学を深める、思想を磨くため」と半ば自分に酔っているんではないかと思われそうな回答で、今の僕は納得している。人として生まれて、言葉を持って、思想を持って、別の人間を人格としてみとめ、たまには自分の中にさえも別の人格を見つける。前述した通り、一事象を考えるにあたっては、その範囲および特定の条件下において議論を完結することができる一方、自分自身の他事象への向き合い方や捉え方との整合性をとろうとすると、思考が足踏みする。単なる接続詞や枕詞を使っても、どうしても一貫性を担保できない考え方をしていたり、自分自身で納得のいく回答を生めない状態に陥る。

飛躍してしまうが、事業においても何かプロジェクトを回す際に、結果的に部分最適に陥ってしまう、と言う状況に陥ることがある。この全体の中で部分を調和させるという試みはどこでも簡単ではないのだと思う。(チープな視点だが、改めて本を編集する人すごいと思う。)一方で、時間は有限で、その限られた資源の中で結果を求められる仕事では、常にそれぞれの問いに対して高速で解を見つけ、もしくは仮説を見つけ、ぶん回すことが求められる。その中で一つのことに想いを巡らせたり、一見関係のない様なことにも目を向けたり、それらを繋いでみたり離したり、そんな行為が必要となる。

ちょっと大袈裟に、思想・哲学とかいう言葉を使ったのは、ケニアという国で、かつバイクライダーという層を相手に、経験も学歴もないメンバーと一緒に仕事をしていると言う状況で、自分の目の前で起こることを一部ドラマチックに捉えているからかもしれない。良くも悪くも自分でも意識しているが、今の環境は日本でいる時には絶対に当たり前ではない様な、というよりもほぼ非現実的とも言える様な世界線の上にある。もちろん全てを括ることはできないものの、自分が相対化してみている世界は、きっと自分の周囲の人が見せてくれる世界であることも事実だと思う。そうすると、1日の大半を過ごす仕事環境においては、日本にいるときと今の自分とでは差が出てくることは当たり前。一方で、それを「日本vsケニア」みたいな二項対立で直線的に考えると、その弊害で思考の偏りが出てくると認識している。

「やっていること・やり方は自分よがりになっていないか」、「無意識に目の前の相手を下にみていないか」、そんな疑念というのか自分への懐疑心なんかは常に付きまとうし、一つ一つの言葉や行動に滲む程度には出ているのだと思う。ただ、そんな自分に対する険悪感や自己否定の衝動を抑えてでも、もしくはそれらを凌駕するものが「使命感」に似た何かなのではないかと最近は感じている。もちろんその方向性が正しいのか、ベストなのかとかはわからないし、誰も答えは持ち合わせていない。そもそもそんなもの時代によって変わるのかもしれない。ただ、それくらいの思いと熱量でやろうしない限り、今見える「それっぽく理解のできる世界」の向こう側に触れることはおろか、覗くことすらできずに、ただ漫然と自分のみならず、家族や大切な人の時間までも徒に溶かしてしまうのではないかという恐怖のような何かも感じている。

この辺は特に主観的な領域なので曖昧な表現になるが、まさに自分自身が何を考え、誰を思い、痛みを想像し、喜びを分とうとするか、そんなことに思考が回るに様になるのが、仕事という名の趣味に明け暮れる意味かなと感じている。もちろん、これは今いる環境下における、一個人かつ現時点での考え方だ。人は縁に触れて行動も言動も思考も変わる。

事業における最適解とは何か

経営者及びビジネスマンに関わらず、一職業人であれば、誰しもが考える問いだと思う。今の事業においては、ざっくり要素分解するとこんな感じだ。

  • ケニアという経済的には発展途上の国 (※表現への指摘無用)

  • アセットファイナンスという金融業

  • バイクライダーという所謂低所得層の顧客

日本では自分自身で事業を回したこともない自分が、この状況を日本での事業活動と比べることはできないし、ビジネス難易度みたいな曖昧な指標で優劣もつけるつもりは全くない。本当にどの企業・スタートアップだろうが、領域が異なろうが、常に四苦八苦しながらやっていると思う。水面下では溺れないように、足をひたすら掻き回しているような。自分の役割はこの中において、ただただ真っ直ぐに最適解と思われる解を引き摺り出し、その解を構成する必要なものを作り上げていくことだと思っている。

一瞬逸れるが、日本でも当の昔よりスタートアップブームで、今では政府も後押ししたり、官民タスクフォースできたり、その影響は法改正にも及んでいる。日本では、一般的にスタートアップというのは、赤字こき続けても短期間で成長して株価上げられる様な企業(詳細定義割愛)とされていて、一昔前に使われていたベンチャー企業などとは一線を画した感じで使われている。一方の英語的表現では、同じニュアンスで使われることはあるものの、基本的には事業を始めたばかりの企業(俺の認識)という認識があると思う。僕が自社の説明をする際は、英語ではStartupっていう紹介をしても、日本語の紹介時には「スタートアップ」ということはない。

アセットファイナンスという事業モデルはお金がかかる。僕たちの事業においては、最初にバイクという資本財を購入して、それを顧客であるライダーたちに提供しつつ、少しずつお金を回収していく。なので、最初にガツっとお金を突っ込む必要がある。これは所謂テックスタートアップが初期投資で思い切り赤字を掘る(その上で爆発的な広がりをもってして一顧客あたりのコストを下げて収益性を出していく)という意味のお金の出方ではない。突っ込んだら突っ込んだ分を狙った場所から刈り取る必要がある。その上で、元本を抜いて金利収入という形で売り上げをやっと建てることができる。

さて事業の話をすると、TAMサイズだのMRR成長率だのPSR何倍だのといろんな呪文が飛び交うのがスタートアップや投資界隈での常である。こういったTerminologyの良いところは、同じプロトコルで明確にお互いの会話している内容がわかる点にある。一方で、たまに怖いのは、全くモデルの違うビジネスにおいて、用語だけを横展させた形で利用され、本来捉えるべき(だと認識している)点が合意できぬままに話が上滑りしそうになることだ。僕は投資・事業周りについては、ズブの素人からのスタートだったので、いろんな場所で恥ずかしい経験をした記憶がある。

話が思い切り逸れそうになったが、上記の言葉達を介して事業の特性や状況を説明することが必要なる。一方で、我々の事業特性上、一般的なテックスタートアップで良しとされる様な「アセットライト」「グローバルスタート」みたいなキーワードを使いたくても、どうしても難しい。そもそもアセット(資産)持ってなんぼのビジネスだし、ケニアのバイクライダーに向けて作ってるオペレーションやサービスだし、みたいなことが出てくる。後者については、特に金融という文脈ではもっと勉強が必要だと認識しているもの、金融はある程度文化や土地の特性に依存する。現金主義だったり、カード主義だったり、モバイルマネーだったり。リテラシーの違いによって、求められるサービスインターフェースも違う。こうした状況を差し引いても、やはりイメージのしずらい顧客像とその顧客の生活環境とが相まって、どうしても事業や対象市場の解像度を上げることは容易ではない。

人間は納得感があるものが好きな動物だ。理解できる(と思っている)もの、合理的(人間は合理的に動かないけど)な説明の付くものに対して、思考の引っ掛かりを介さずに納得してしまう。コンサルで使われるMECEなんて言葉も、「MECEさ」は聞き手がそれっぽく受け取れるか次第だ。人間(おそらく他の動物も)は自分の想像の範疇を超えたものは本当的に怖いと感じるらしい。極論だが、おとなしいそうな人が殺人をした場合などにも、メディアなんかが過去の卒業文集だの、遊び方の特徴だの引っ張り出して、「あーやっぱり、そういう傾向があったから」みたいな感じで、無理くり理由づけをしようとする。偶発的なもの、化学反応的に起きるもの、そんなことよりも、筋道があってわかりやすいものが人間は好きだ。だから多くの人間が関わって意思決定をする物事は、統計的にアウトプットが凡庸にある傾向があるのだと思う。

話を戻す。事業における最適解を探すために、スタートアップ経営に関すること、組織に関すること、制度に関すること、いろんな書籍や記事を読んだ。(経営をして良かったと思う一つは、昔と比べて一つのインプットからの吸収効率が格段に変わったこと。時間が無いからというより、必死さが全然違う気がする。)本を読みながら、先輩経営者に相談しながら、いろんな試行錯誤を繰り返して、常に最適解を探し続ける。やっていく中で定量的な評価指標など随時開発はされつつも、同じ事業をやる上では、おおよそのベクトルは変わることは今のところはあまりない。一方で「今の事業のあり方は正しいのか?でなければ、どうすればよいのか?」みたいな問いを考える続けることが自然と求められる。時流によったり、組織サイズや事業内容によってやはりその最適解は常に変わるもので、その時々に応じた(という玉色表現)一番近しいものを「自分で信じで実行する」のが最適解なんだろうと思う。

自分の家族に誇れるか

相も変わらず、書けば欠くほどズレてくるが、自分が常に思っているのは、職業人というより以前に人として「自分がどうありたいか」を大切にする人生でありたいということ。一方で、置かれた立場、今いる環境が自分の思いを全肯定できる状況にいれないこともあるはず。これは単に上司に口答えできないとかではなく、仕事をしていれば多くの人がどこかで感じることで、「これって本当にやりたいことだっけ?」「今の俺のやってることってホントに価値生んでるんだっけ?」みたいなことで、何度だって自分に問いを投げたことだと思う。

僕は今の立場では、事業に必要なリソース(人とか金とか)を引っ張ってきて、その上で企業価値最大化のために最適な事業運営をする、というのが求められていることだと自覚している。もちろん、我々がやっている事業の社会性に目を向けてくれることもあったり、組織づくりに感銘を受けてくれたりすることがあるもの、そこだけを押すのであれば営利企業としてある意味はなく、もっと別の形もあるはずで、事業としての成果を出した上で初めて認められるのが、企業における社会的価値だと考えている。収益を安定的に立てるためにも組織拡大が必要となり、どんな組織であるか、一人一人の社員が彼らが働いている場所に何を思ってもらえるかも、僕自身はこだわりたいと感じている。採用しているスタッフ層を考慮しても、単に組織を拡大することは簡単ではないけれども、困難から目を逸らさず大切に作っていきたい。

少しだけ、ケニアビジネス全体における認識や自分の知り得る限りのビジネスを踏まえた持論を共有したい。ケニアも2010年代中期ごろより、所謂スタートアップが台頭し始め、投資も活発になり始めた。北米的・先進国的なスタートアップおよび投資のスタイルも主流になりつつ、Linkedinを開けば、(表現悪いが)煽っているような内容もある。ネガティブに見える記述をしているが、これは悪いという意味ではなく、人はそれぞれ場所に合わせた表現を行うものであるという認識はある一方で、それをうまく消化し整理できない自分自身への一種の甘えから来ていると思う。またもう一方で、自分たちの事業や組織運営とは少し異なるものだというニュアンスで表現している。ただ、僕が認識している限りでいうと、過去数年で倒産したスタートアップは、ほぼほぼ内部崩壊みたいなものが多い傾向にある。スタートアップ特有の「市場がまだ出来てなかった(事業モデルが早すぎた)」「PMFまで持っていくことができなかった(体力続かなかった)」みたいなものではなく、何らかの不正なり、事業拡大スピードに合わない採用/登用や、拡大するためのオペレーションを回すだけの組織ができない、と言った事例が目につく。特にニュースになるのは、大型調達をしていたスタートアップなので、その陰に隠れた別の理由による倒産劇があるにはあるだろうと思う。

またもう少し踏み込んでみると、そして少し反感を恐れずにいうと、ケニアにおける労働市場の質は諸外国と比べると薄い。これは本当に言葉を選んで書きたいが、基本的にリテラシーは高く無い。どの大学を出ていようが、高等教育を受けていようがいまいが、全体で見るとある一定の結論として良いと考えている。これを先進国目線で語っているとかいう話になると、行き着く先はそもそもの資本主義というスキームの功罪や、"考えること"を止めさせた植民地支配などの話になるので、ご容赦いただきたい。ただ現地で話を聞く限りでは、日本の公立教育で受けるような教育がこちらで施されてはいないし、基本的な社会の成熟度(と呼んで良いのであれば)は全く異なる。

またこれは文化否定にもなりうるので極力避けるべき言及だが、スワヒリ語(ケニアのメインの公用語)という言語自体が、雑にいえば「荒い言語」だと理解しており(これは元々奴隷のために作られた言語というニュアンス)、それを英語(ケニア人は結構喋れる)という基本的にローコンテクスト言語に直すので、さらに荒くなる。そうなってくると、思考を深めるための抽象度の高い議論、また言葉ごとの定義を文脈に応じて細かくするなどの所業はどうしても難しい。入りたてのスタッフによく伝えるのは、「"片付けて"で終わる話を、"椅子をデスクに入れて、ゴミ箱をからにして、デスク拭いて、、、”という話をしなくていいようにしたい」というようなこと。(伝わっているかは別の話。)逆も然りで、特に様々な事象を考える時には、事象の特性や分類を行い、その条件や場合分けを適切なカテゴリにする必要がある。その際に雑な分類をすると課題が見えなかったり、打ち手が荒くなり問題を起こしている要因の解消にたどり着かない。

足元に目をやるとこのようなやり取りが、今の僕の日常では相当な量をまだ占めてしまっている。キラキラ感はないし、カッコ良くもなければ、何か真新しいことに溢れているわけではない。毎日死ぬほど今の状況に課題感を感じているし、そんな焦燥を募らせ続ける状況には、事業としても個人としても非常に問題意識を持っている。一方で同じく、もしくはそれ以上に理解しているのは、前述したアフリカビジネスにおける難しさだったり、その根源になりうる組織体質への課題感、またそういった状況に陥るまでの筋道への仮説に対して、自分が何に時間を使うべきかを考え抜いた上で、やっていることが一見すると面白味もなければ華やかではないけれど、確実に意味のあることをやっているということ。これはある程度の思い込みや自分へ言い聞かせている面も大いにある。ただ、ここを外すと絶対と言い切れるほどケニアにおいては組織の成熟は期待できない上、10年・20年の視野で考えたときの事業の存続可能性が担保できなくなると思っている。

そんなことになぜ人生を賭けようとするのか。合理的に考えると、別の選択肢はどこにでも転がっている。そうなアドバイスを頂くこともある。ただ、これほどロマンに満ちている場所で、意味しかない事業アプローチをできる場所は多分この先もうないのでは?と思っている。人生において命賭けるタイミングなんか、ほんとに数が知れてるはず。何度か出くわすかも知れないし、一生来ないかも知れない。今僕は、そういった機会に有難くも直面することができている。かみさんには三児の育児を一手に引き受けもらい、インフラの整わない中で各業者(というレベルにもない人たち)と日々戦ってもらいながら、好き勝手に仕事をさせてもらえる環境。自己資金で起業していたら多分できなかったようなアプローチ。せっかくやるなら、 “これまで誰もやったことないようなやり方”で、“誰もが諦めてたような世の中を作り”にいきたい。

一時脱線。小学校の時に、ちょっと大袈裟にいうと学級崩壊に5年生の時にクラスで2回ほど脱走があり、担任の先生が(今で言う)鬱になり、生徒も先生も登校拒否、みたいな時期がった。6年生に上がった時には、女の子は思春期真っ盛りだし、男どもはバカの極みみたいな学級になっていて、それを立て直してくれて、卒業させてくれたのが当時の担任のE先生だった。帰りの会ではクラスソング?になっていた尾崎豊の15の夜をカセットでかけて歌うという、ちょっとある種の特殊な色彩をまとった教育を施してくれた。小一から各年の先生に諦められていた僕も、E先生は本当に優しく、厳しい時もありながら生徒一人一人に向き合ってくれた。1~5年の先生も本当に素敵な先生に、義務教育過程でお世話になりまくった。高校まで地元の公立だったが、田舎の公立であんなに素敵な先生たちがいるっていること自体、この日本の素晴らしさを表していると大人になって心から思う。友人でも教育にいずれかの形で携わっているやつらがいるけれど、本当に心の底から尊敬しているし、次世代の人材を育ててくれているという観点で感謝しかない。一方で、昨今は色々大変なようで、ビンタ一発でトンデモ事態認定されるようなので、本当に先生も生徒も難しいだろうとも思う。

自分を振り返ると「教育」ということには、恐らくは人並み以上には興味を持っていた気がする。大学1年の春休みにリュックサック(バックパックですらない)で行ったフィリピンでは、スラムのゴミ山で無償教育を提供している学校にお世話になったし、大学4年時のゼミで取り組んだ政策提言プロジェクトも、初等教育における海外交流の推進をテーマにやってきた。「将来はいつか“教育”に携わりたいな」とかボヤっと思いながらも、新卒から会社員となり全く道からは外れ、コンサルだったりVCだったり、ファイナンス事業始めてみたり。でも今やっているのは、本当の意味でのリテラシーを上げるための実務レベルでの教育だと思っている。三角形の内角の合計もピンと来ないし、ロジカルシンキングなんてまた先の話みたいなレベルでのトレーニングをやったりしている。

どんな事業作りをやりたいか

ケニアで事業をやろうとすると、多くの人が(人種問わず)事業アプローチに悩み、結果的にある種同じようなやりように着地するのではと考えている。投資家と労働者は完全に別れており、労働者は自分の体(時間)を切り売りして、単純労働に従事するのみ。雇用主は、労働者に対して本質的な意味での“成長”なんか求めないし、万が一成長したらラッキーくらいの感覚だと思う。広く使われいる一般的な手法かつ合理的で妥当性のあるアプローチだが、所謂「マルクス的資本主義モデル」とでも呼んでおこう。社員の成長がないと、管理のための工数やコストが嵩み、賃金上昇もほぼ見込めない(経済の軽微な変化に応じて多少あるものの)ため、労働者もジョブホップを繰り返す。能力開発はよっぽどのことがないと見られることはなく、タイトルとして「マネージャー」とつくだけで勘違いをしている人は多数。ちょっと前に触れたが、基礎教育を経て得られるリテラシーが低いため、やはり成長速度に影響を与える。事業主からするとジョブホッパー労働市場において、変な投資はリスクが高すぎてできないし、結果的にいい奴がいればラッキーということで、多くの労働者は低賃金・低技能(・かつ多くの場合は自己能力への誤認識)が生まれる。結果的にどうしても、大きな産業にはなりにくい構造となっている。いってみれば、短期的思考での逃げ切り戦略が多いと思う。

こんな国土だからこそ、超面倒ではあるものの、本質を外さないように事業を行いたいと思う。これは、僕自身が自分に対して課している期待であるし、自分の人生を正しいと思い込みたいというエゴでもあるし、そんな人生で出会った人たちを宣揚したいみたいな勘違いかも知れない。でもやっぱし自分が生きてきた中で培った(というと烏滸がましいけど)、盛田連司として矜持みたいなものがあるのかも知れないとも正直思っている。そんな中で、仕事できているかどうかって、家族に誇れる仕事なのかもなと思って、家族に全く時間を使えない言い訳にしている。将来どうやっても後悔するに決まっているけど、その後悔に意味を持たせるものにするために、今の生き方をしている。

もし自分自身が起業して、外部資本入れてってなってたら、今みたいな悠長なことは言ってられなかっただろうと思う。もちろん現状の事業体制を前提とする投資家を集めるのが代表の務め、みたいなことはわかっているが、常にそんな絵に描いたようなハッピーシナリオにはならない。というかそれだけ狙ってやる調達はリスクが高すぎると思う。自分の経営方針が会社にとってベストでないと判断された時には、別の人間が代表をすればよいと本気で考えているし、実際フェーズが変わる時には自分が居続けるのも相当にUnhealthyだと思う。とかいうことも相まって、本当にここ1、2年位は正念場。桜木が山王戦で安西監督に言ったように、誰にでも“勝負時”があるのであれば、きっと今だろうと思って毎日向かっている。

組織を強くするために

もう"とってつけた"みたいな感じだが、我々がCulture作りおよび組織開発?に対して行っている一部を紹介したい。正直、やりたいことの10〜20%くらいしかができてないし、まだまだ構想段階のものもいっぱいある。上記のnote読んで、もし少しでも心燃えた、みたいな人がいれば本当に声をかけてもらいたい。この内容を読んで、かつ盛田のこの面倒そうな思考を理解した上で、“燃えることができる”というのは、非常に稀なことだと思います。迷わず、一声かけてください。

あまり仰々しくするつもりはないが、社内ではざっくり以下のような取り組みやったりしてます。

  1. Culture Deckの共有:2023年に初版を作ってから、適宜内容を更新しながら、折に触れて共有をしている。当該資料の必要な背景、カルチャーの考え方、弊社で作りたいカルチャーについて記載。

  2. Employee Guidelines/Action Listの作成:Cultureに基づく評価指標およびその他の内容を整理。またAction ListではValueに基づく基本的な行動を定義している。

  3. Daily Wrap-up:各メンバーに責任感を持ってもらうため、毎日全スタッフで集まり、日次実績の報告をしてもらう。司会も当番制。

  4. All Staff Meeting:各月で開催。全社員参加。事業数値、Culture、トレーニング、目標設定な度様々。

  5. Trainings:ジョブタイトル別で実施。過去にはSpread Sheet(基本機能に加え、テーブル作成、関数、条件付き書式などのレベル感)やロジカルシンキング(帰納・演繹、フレームワーク、MECE、ロジックツリーとか)。

  6. ZARIBEE Classroom:2024年4月より導入。全社員の基本リテラシーの向上目的にリテラシー(+コンピテンシー)毎にクラスを作り、短時間の講座を開設。

  7. Evaluation and Feedback:Valueを体現するためのコンピテンシーを定義し、それを具体的な事象ベースで評価。準備・フィードバックも丁寧に行うように時間の確保を行なっている。

内向きばっかりの紹介せずに、わかりやすい話しろよ、って声も聞こえてくる。そのために自分が変わらなければ(変わるというよりも、その点での力をつけなければ)とひしひしと感じている。恥じらいを持たずにいうと、きっと「ありのまま愛して」みたいなセンチメンタルな面がないことはない。でも、それ以上にこういったところに思いを馳せることができないと、投資家であれ事業仲間であれ、一緒に仕事ができないと思っている。

目の前の一人の生活がこんなに変わるシーンに出会うエキサイティングな日々がどこにあるだろうか、スタッフが変わっていく姿がこんなに見れる環境がどこにあるだろうか、そんなことにウキウキできる場にしたいし、その一人一人の変化が絶対にこの国を変えていくと思っている。モメンタムみたいなものは一朝一夕では作れないし、ましてや世の中に変化を生むなんてもっての外。日本国だって先人の礎の上に成り立っているし、各種研究領域や科学技術も多くの人の直向きな努力と継続によって生まれている。頭ではわかっていても、どうしても目移りしそうになる中で、絶対に目の前の一人から目を背けない、その一人に向き合い続ける事業を作りたいと思っている。ビジョンとか大げさなことは言えないけど、こういった使命感を持って事業に取り組んで、人々が「自分の努力が評価されることもある」っていう認識を持ってもらえるような世界を作っていきたい。

最後に

ここまで良くぞ読んでくださいました。ありがとうございます。僕が思考が偏りがちな人間であることをご理解いただけたかと思います。正直に申し上げると、かつ言葉を選ばずにいうと、組織作りは半ば宗教か、洗脳に近いものがあると自分では思っています。一方でそれくらいの思いがなかったら、組織なんて作れないし、ましてやこの国で事業はできないと、自分に言い聞かせながら、毎日自分のフィードバックや伝え方を猛省しまくってます。四捨五入で40代に突入したし、正直体もどこまで持つかわからないですが、息抜けるだけ生き抜きたいと思ってます。

訳のわからぬタイトルをつけたせいで、締め方もわからなくなったので、このまま終わろうと思います。最後になりますが、本当にいつも支えてくれる家族・友人をはじめ、多くの人に感謝ばっかりです。みなさんに、少しでも「盛田と関われてよかった」って思えるように頑張るので、しばしお待ちください。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?