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晩ご飯

晩ご飯

バイトからの帰り道に、晩ご飯と書いてある看板に出会った。
ただその単語だけ書いてある、小さい看板。

たしかに「晩ご飯」という言葉には細かいメニューの説明なんて似合わないな。そんなことを考えて妙に納得した気持ちになっていた時、ふと、その言葉に染み付いた小さい頃の記憶が蘇ってきた。

夕方の教育テレビをぼんやり見て、なんとなく空を眺めて、そしたら晩ごはんよ、という声が聞こえて。

帰り道に拾って食べた木の実が史上最強に不味かった日も、うぜぇ先生に泣かされた日も、ハツコイに目覚めた日も友達に意地悪した日も。

同じように晩ごはんよ、という声が聞こえてきて。
そして当たり前のように毎日食卓の席についた。

そんな家で食べる毎日のご飯、晩ご飯。
(もちろん「できたわよー」とかの日もあったが…)


晩ご飯に、メニューはない。インド料理だとか、韓国料理だとか、日本料理だとか、そんな区別はなく、(強いて言うなら家庭料理か)料理名はあれどそれ以前に晩ご飯は晩ご飯だ。
家で、ただ自分たちのために、純粋に食べるために作られたご飯。
そんな、生きるためのご飯を私は「晩ご飯」と呼んでいる。

もちろんよそで食べる夕食も楽しくて素敵だ。色んな料理が選べて大抵美味しい。誰かと食べたい時や一人で安く済ませたい時などシチュエーションに合わせていろんな選択肢がある。

でも。

実家を出てから2年、平日は寮でご飯が出るし、休日も適当に買って食べれば凌げてしまう。気づけば生きるための、自分のためのご飯を当分食べていない。
別に食なんてなんでもいい、と晩ご飯を軽視した代償は全くもって大きいよ。
私は今、食べなくても生きていける、そんなどうでもいいものばかり食べて生きている。



実家のあたたかい晩ご飯に飢え彷徨い歩くモラトリアムのさなか、私はまた、真昼のようなハイテンションの嘘くささで輝く、全国のどこにでもあるようなコンビニエンスなショップで夕食を買い求める。
だって手軽で美味しいから。

ああ。
誰のものでもない、いつ作られたのかもわからない、キカイ製の狂いのない商品ばかりだ。

よりどりみどりの陳列棚だっていうのに、調味料が少し足りない料理も、名前のない挑戦的な料理も、明らかに手抜きの料理も、どんなに探しても見当たらない。

暗い夜道を肉まんをかじりながら歩く。カラシをつけながら。
こんなはしたなさで、いつか自分の食卓を持てる日はくるのだろうか。

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